コラム
「人が押す鉄道」はなぜ生まれ、なぜ消えていったのか 豆相人車鉄道の歴史:神奈川の「廃線」をたどる(2/4 ページ)
1896年に小田原から熱海までの全線約25キロが開通した豆相(ずそう)人車鉄道。明治の文豪の作品にも描かれたこの鉄道は、レール上の箱状の客車を車夫が押すという、極めて原始的な乗り物だった。
レール上の客車を「車夫が押す」乗り物
この「熱海軽便鉄道7機関車」は、明治の終わりから大正にかけて、熱海と小田原を結んでいた軽便鉄道で実際に使われていたものだ。説明板には「熱海・小田原の所要時間 軽便鉄道=160分 東海道本線=25分 新幹線=10分」という興味深い数字も書かれている。
軽便鉄道の旅は、現代の旅と比較すればずいぶんとのんびりとしたものだったのが分かる。だが、軽便鉄道が登場する以前、熱海-小田原間には「人車鉄道」と呼ばれる、さらに原始的な鉄道が走っていた。
これは文字通り、レール上の箱状の客車を車夫が押すという乗り物であった。
熱海軽便鉄道の前身である、この豆相人車鉄道の開業にも、先行開業していた小田原馬車鉄道(箱根登山鉄道軌道線の前身)と同様、東海道線のルート選定(現・御殿場線ルートでの建設)が関係している。
江戸時代に東海道五十三次の江戸から9番目の宿場町として栄えた小田原や、古くから温泉地として知られていた箱根・熱海では、鉄道ルートから外れたことによる街の衰退、陸の孤島化が危惧され、鉄道誘引の機運が高まった。
1888年に、国府津-小田原-湯本間を結ぶ小田原馬車鉄道が一足先に開業すると、熱海では「軽便鉄道王」として知られた雨宮敬次郎が中心となって人車鉄道の建設が進められた。
当時、熱海温泉は名湯として知られていたものの、30軒ほどの旅館が軒を連ねるにすぎず、採算を考慮した結果、人車が採用されたのだという。
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