“累計1000万枚”のブランド構築術 尾崎豊を支えたアートディレクターの「視点」とは?:浜田省吾も担当(1/2 ページ)
CD市場の縮小やデジタル配信の台頭により、音楽業界の収益構造やブランド戦略が大きく変わってきている。尾崎豊氏や浜田省吾氏のブランド構築に貢献してきたアートディレクター、田島照久氏にクリエイティブ業界における成功の要点を聞いた。
Bob Dylan氏、Miles Davis氏、矢沢永吉氏といった世界的アーティストのジャケットデザインを手掛け、数々のブランド構築に貢献してきたのが、アートディレクターの田島照久氏だ。特に尾崎豊氏や浜田省吾氏の作品で知られ、彼の仕事の本質は「クリエイティブを通じたブランド価値最大化のプロフェッショナル」と言える。
尾崎豊氏のデビューから亡くなるまで、約10年にわたりアートディレクションを担当。シングル・アルバムなど関連作品は、没後も含め累計約1000万枚のセールスを記録している。浜田省吾氏においては40年以上にわたり、ほぼ全作品のアートワークを担い、オリコンアルバム1位を10回獲得するなど、単なるデザインの枠を超えた継続的なブランド成長と顧客ロイヤルティの維持を実現してきた。マーケティングの視点からも注目に値する。
田島氏は、クリエイティブとテクノロジーをいち早く融合させてきた人物だ。1980年代には、業界に先駆けてMac SEを導入。印刷所がまだ対応していない段階でDTP(Desk Top Publishing、PCで印刷物をデザインする技術)やデジタルフォントを活用し、表現に取り入れてきた。コンピュータグラフィックスを駆使したデザインの革新は、アーティストの競争優位を生み出す重要な武器となったといえる。
田島氏が2月に発売した作品集「田島照久 MUSIC ARTWORKS」(Sony Records)は、53年(ソロ活動45年)にわたるキャリアの集大成だ。CD市場の縮小やデジタル配信の台頭により、音楽業界の収益構造やブランド戦略が大きく変わってきている。
田島氏は特に音楽業界におけるアーティストのブランディングと売上拡大に大きく貢献し、ITやデジタル技術を先駆的に取り入れ、ビジネス成果につなげてきた。クリエイティブ業界における成功の要点は何なのか。「売れ続けるブランド」を作り上げてきた田島氏へのインタビューから、その戦略的な仕組みを読み解く。
田島照久(たじまてるひさ)アート・ディレクター、グラフィック・デザイナー、写真家 、デザインプロダクション「THESEDAYS」主宰。1949年福岡県生まれ、多摩美術大学グラフィック・デザイン科卒業。CBSソニー(現SonyMusic Labels Inc.)デザイン室の勤務を経て渡米、1980年よりフリーランスとなり、1992年にTHESEDAYSを設立。浜田省吾、尾崎豊をはじめとする多くのミュージシャンの撮影とパッケージカバーのアート・ディレクターを務める。以降、仕事はエディトリアル、ポスター、広告、カレンダー、写真集、小説やコミックの装丁などグラフィック全般に及ぶ。アニメーション関連のデザインも多く「攻殻機動隊」や「機動警察パトレイバー」などは企画の立ち上げ時から関わっている。MACの創成期からコンピュータによるデジタルデザイン、デジタルフォトグラフィーに表現分野を拡げ、1994年に世界初のCGによる恐竜写真集 "DINOPIX" を発表、欧米でも出版される。近年はPremierProを使った映像制作にも取り組む
クライアントと「長期的な信頼関係」を構築する秘訣とは?
――田島さんは、独立して45年以上、アートディレクターとして活躍してきました。近年はCDが売れなくなり、生成AIも登場するなど、音楽業界やデザインの現場も大きく変わりつつあります。こうした変化の中で、どう仕事に取り組んでいますか?
確かにCDを買う人が減ってきて、テクノロジーもどんどん進化しています。AIが僕の過去の仕事や情報を学習して、100年後も「田島照久」が作品を作り続けているかもしれません。でも僕自身は、目の前のアーティストやクライアントと、いかにして信頼関係を築くか、そこを一番大事にしてきました。
――浜田省吾さんや尾崎豊さんなど、同じアーティストと長年仕事を続けてこられました。その秘訣は?
よく「秘訣は何ですか」と聞かれるのですが、実は特別なコツがあるわけではないんです。例えば美容室に自分のお気に入りの美容師さんがいて、そこに通い続ける感覚に近いと思います。自分の思い通りの髪型にしてくれて、世間話もできて、なんとなく居心地がいい。僕とアーティストの関係も、それに似ているのかもしれません。
もちろん、仕事をいただく立場なので、クライアントの期待以上のものを常に返そうと心がけています。でも、もしアーティストが「最近の田島さんはちょっと違うな」と思えば、別の人に頼むでしょうし、それは自然なことです。
有難いことに、担当したアーティストとは長くお付き合いが続くことが多いです。例えば尾崎豊さんはデビューから亡くなるまでずっと一緒に仕事をさせてもらいましたし、HOUND DOGも解散するまで担当していました。自分でも理由ははっきり分からないのですが、何か長く続けられる要素が自分の中にあるのかもしれません。
「特質を掴む」 クライアントの本質を引き出すアプローチ
――リピーターとして選ばれる理由についてどう考えていますか。
私の場合、あまりリスクを取らないというか、変なものを作らないように心がけています。「この人に頼むと、いい時はいいけど悪い時は悪い」というような不安定さがないよう、常に一定のクオリティーを保つことを意識しています。
――クオリティーコントロールについて、意識していることはありますか。
手を抜くことはありません。それはもう性分で、例えば入稿した後に少しでもセンターがずれていることに気付いたら、帰宅時に駅に着いていたとしても事務所に戻って修正作業をします。自分が納得できないと気持ち悪いので、どんなに細かい部分でも妥協せず、緻密に仕上げることを徹底しています。外からは分からないかもしれませんが、自分の中では常に「隅々まで完璧にしっかりやらなければ」という思いが強いです。
――自分を表現したい気持ちはないのでしょうか。それとも、やはりクライアントワークが中心なのでしょうか。
私は、まず対象となるアーティスト一人一人の特質をしっかりと掴むことを最も大切にしています。それぞれのアーティストには見た目の個性もあれば、楽曲で表現される特徴もあります。そうした特質は、初めて仕事をした際に感覚的に掴むことが多いです。
例えば、浜田省吾さんと初めてご一緒したときも、写真やデザイン、フォントに至るまで「これが浜田さんに合うな」という感覚をすぐに掴むことができました。その後も、アルバムを重ねるごとに表現は変えていきますが、根本的なアプローチや考え方は最初に決まることが多いです。最初の仕事でしっかりと掴めないと、その後も続かない気がします。実際、ほとんどのアーティストで同じ現象が起きているので、これは自分でも不思議に思うところです。
「もっと奥深いもの」を表現 ブランド価値の高め方
――最初の撮影で、田島さんが尾崎豊さんに「落ち葉の上に寝転んで」と言ったら、素直に「分かりました」と応じて、撮影が始まった──というエピソードがありました。その時に田島さんは「この人とはうまくいくな」と手応えを感じたそうですね。そもそも、どんな意図があったのでしょうか。
尾崎さんを徹底して綺麗(きれい)に撮ろうと思えば、それは簡単にできてしまいます。ポートレートとして撮影すれば、誰もが望む「かっこいい尾崎豊」のレコードジャケットができあがるでしょう。でも長い目で見たときに、それが本当に尾崎さんがやろうとしていることなのかと考えました。腕を組んでカメラを見つめるようなジャケットではなく、もっと奥深いものを表現しなくてはと感じたのです。
実は、尾崎さんに会う前から「十七歳の地図」というアルバムのタイトルが決まっていました。高校生でロックを歌い、曲も作るアーティストをどう表現するかを考えたとき、自然と「十七歳の地図」のジャケットのようなイメージが頭に浮かびました。
6月13日に東京・南青山 MANDALAで「田島照久 MUSIC ARTWORKS」を記念したMusic Artworks Talk & Liveを開催。盛況の内に終了した。写真は尾崎豊氏の最初の撮影で、駒沢公園の落ち葉の上に「ここに寝転んで」と言ったところから撮影が始まったことを説明する田島さん(撮影:河嶌太郎)
――会う前からイメージが浮かんでいたのですね。
そうです。「十七歳の地図」というタイトルが最初から決まっていて、プロデューサーから「SEVENTEEN’S MAP」というタイトルにしようと思うんだと聞いたとき、「高いところから飛び降りているようなジャケットがかっこいいんじゃないか」と直感的に思いました。
――浜田省吾さんの場合はどうだったのでしょうか。
浜田さんの場合も、もちろんご本人が登場するジャケットも多くありますが、基本的には「on the road」という、ずっとツアーを続ける人というイメージからヒントを得ました。例えば「道」や「空の広がり」といった要素が、表現の重要なアイテムになると最初に決めておくと、自分の中でも表現の方向性が定まりやすくなります。その枠組みの中で、さまざまな表現を拡(ひろ)げていくことができると考えています。
想像力を促すコーポレートアイデンティティ戦略
――1回目の仕事でアーティストの特徴を掴める理由について、ご自身ではどう分析していますか。
基本的には「言葉」が大きな手がかりになっていると思います。アーティストが何を伝えたいのか。その言葉や表現、時には宣伝文句のようなものまで、しっかりと受け取るようにしています。
例えば、尾崎豊さんの場合、「15の夜」の一節など、彼がどんな詩を書くのか事前に聞いていました。「盗んだバイクで走り出す」といった衝撃的な内容を知っていたことは、とても大きかったですね。浜田省吾さんの場合も、「on the road」というテーマでライブをしていたので、言葉の情報がより多かったと思います。最初の仕事の段階で、そうした言葉からアーティストの本質を掴めるのだと感じています。
――尾崎豊さんの場合、CDジャケットなどでは漢字表記ではなく「Yutaka Ozaki」という表記をしています。尾崎さんの写真はほとんどがモノクロですし、ジャケットには歌詞にインスパイアされた英語の詞などが書かれていて、独特の世界観があります。田島さんは「企業のコーポレートアイデンティティ(CI)戦略に近かったかもしれない」と分析していますが、これは何を意識していたのでしょうか?
そうですね。どこかで全てを説明しすぎないようにしています。例えば「十七歳の地図」のジャケットも、尾崎さんの顔がはっきりとは分からないようにしています。日本語の「尾崎豊」ではなく「Yutaka Ozaki」としたのは、幸運にも「十七歳の地図」は英語のタイトル(「SEVENTEEN’S MAP」)が決まっていたことも、自分のデザインスタイルに合っていました。
英語表記やモノクロの写真など、分かりやすいようでいて、どこか煙に巻くような表現を意識しています。そうすることで、聴く人や見る人の想像力を膨らませてくれるのではないかと思っています。
私自身も、昔は洋楽の情報が少なく、音楽雑誌に載っている小さな写真や断片的な情報から、アーティストの姿や世界観を想像していました。だからこそ、ジャケットから得られる僅かな情報を手がかりに、LPを買うという体験に近いものを今でも大切にしているのかもしれません。
――見る人の想像力を掻き立てる意図もあるのでしょうか。
まさにその通りです。説明しすぎず、余白を残すことで、買った後の楽しみが増えるのではないかと考えています。例えば(尾崎豊の)3rd(サード)アルバム「壊れた扉から」のジャケットに使った「葉っぱ」もそうです。落ち葉だけれど少しグリーンが残っている、そういった曖昧(あいまい)さや余韻を大切にしています。
例えばオイルをガラスに流して撮影したり、ガラスを割って使ったり。これらは、まだ曲ができていない段階で制作したものです。(尾崎豊の)2nd(セカンド)アルバム「回帰線」の時も、曲を聴かずに撮影を進めるしかありませんでした。
――曲を聴かずにジャケットを制作することもあったのですね。
そうなんです。撮影のスケジュールが差し迫っていたこともあり、曲を聴く前にイメージを膨らませて制作することが多かったです。「壊れた扉から」の時も、10代のうちに30曲を世に出すために、「10曲はつくろう」と話していたらしいのですが、実際には9曲しか入れていないのです。
「壊れた扉から」の最後に録音した曲も、実際に聴いたのは制作のかなり後になってからだったと思います。それでも、アーティストの言葉や世界観から感じ取ったものを大切にしながら、表現を形にしていきました。
――ガラスが飛び散るなど、撮影現場でのエピソードも印象的です。田島さんの中にも、アーティストとしての尾崎豊が少し「存在している」と感じたことはありませんか。
自分の中に尾崎さんがいる、という感覚はありません。極端に言えば、共鳴する部分はほとんどないのです。もちろん、年齢も一回り違いますし。浜田省吾さんとは話していると共通点を感じることが多いですが、尾崎さんの場合はそういったものがあまりなかったですね。
ただ、気持ちを理解しようとする姿勢は持っています。例えば、校舎に石を投げるといった行動は、自分たちの世代でも多少は経験があるので共感できますが、バイクを盗むなど、尾崎さんがやろうとしていたさらに深い部分は、正直なところ理解しきれないことも少なくありませんでした。本人にも「分かるけど、僕にはあまり理解できない」とよく話題にしていました。
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