なぜ「一度消えた」オニツカタイガーは復活したのか 世界的ブランドへと成長した背景:長浜淳之介のトレンドアンテナ(2/5 ページ)
アシックスのブランド「オニツカタイガー」が絶好調だ。2027年には分社化を控えるブランドのこれまでと、新たにオープンした旗艦店についてまとめていく。
バスケットボールシューズから、靴づくりの歴史が始まった
オニツカタイガーの歴史は、戦後間もないアシックス創業の頃に遡る。
創業者の鬼塚喜八郎氏は、戦死した友人と交わした約束から、子どものいない神戸の年老いた鬼塚夫妻の面倒を見ながら生活し、養子となった。当時の鬼塚氏は、闇市まがいの不本意な仕事に悩んでいた。意を決して退職後、軍隊時代の知人の勧めで、運動靴のメーカーを起業することにした。
第一歩として、1949年に個人事業の鬼塚商会を立ち上げ、問屋として小中学校に上履きなどを納めた。当時は靴の知識が全くなかったため、知人の紹介でメーカーに通い、約1年間にわたって靴づくりの工程を学んだ。 そして、最初に自ら挑戦したのが、バスケットボールシューズだった。
試作品は「わらじのようだ」と酷評されたが、選手たちの意見を聞いて改良を重ねた。タコの吸盤をヒントに、凹型の靴底を考案して、満足度が高いシューズが完成した。苦心の末に開発した商品のブランド名は、アジア最強の猛獣・虎にちなみ「タイガー」とした。当時の工場長が靴裏に虎マークを入れたのを鬼塚氏が気に入り「虎印」をブランドにしようとしたが、既に商標権を取られていたため「オニツカのタイガー」とした。1965年に「オニツカタイガー」となった。
現場に入り込んで改良を重ねるスタイルは、アスリート向けの製品に限らず、工場や建設での作業靴などにも貫かれ、現在までアシックスの社風、伝統として定着している。 靴を依頼してきた高校が同社のバスケットボールシューズを履いて全国大会に優勝した効果もあり、注文が殺到して一躍全国区のブランドとなった。
オリンピックが飛躍のきっかけに
その後、ランニングシューズがメルボルン五輪で日本選手の公式トレーニングシューズに採用されると、世界に飛躍するきっかけとなった。1964年の東京五輪では「UIライン」のデザインのシューズを11カ国が採用。同社の製品を着用した選手が獲得したメダルは、金20個、銀16個、銅10個、計46個に上った。
マラソンで銅メダルに輝いた円谷幸吉選手もUIラインで走った。 市販モデルは一般のスポーツシューズの2倍以上の価格だったものの、飛ぶように売れた。メキシコ五輪では、定番となった4本ラインの「オニツカタイガーストライプ」(のちの「アシックスストライプ」)が登場。社内公募で集まったアイデアから採用し、当初「メキシコライン」と呼ばれていた。アディダスのスリーストライプ、プーマのプーマストライプなどと並び、以降は同デザインが同社のアイデンティティとして定着する。
このメキシコ五輪でも、マラソンの君原健二選手が、マメのできにくい「マジックランナー」を着用して銀メダルを獲得するなど、成果を上げた。 1977年にオニツカ(1958年に鬼塚から商号変更)と他の2社が合併し、アシックスが誕生。ブランド名も「アシックスタイガー」に変わった。その後「アシックス」となり、オニツカタイガーは、一旦ブランドとして消滅した。
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