コラム
» 2005年05月09日 00時29分 公開

RMS:BitKeeperとの決別はハッピーエンド

まもなくBitKeeperはLinuxの開発現場から姿を消す。そして、Linuxが、使えるものでさえあればフリーではないソフトウェアでも構わないという考え方のショーウィンドウとなることもなくなるだろう。

[Richard-M.-Stallman,japan.linux.com]
SourceForge.JP Magazine

 生まれて初めてのことだが、わたしはラリー・マクボイ(Larry McVoy)に感謝したいと思う。フリーソフトウェア・コミュニティーの最大の弱点を取り除いてくれたのだから。というのは、マクボイが、フリーではない自作ソフトウェアをフリーソフトウェア・プロジェクトに使わせることによって販促を図るという戦略を止めると発表したのだ。

 まもなく、マクボイのプログラムはLinuxの開発現場から姿を消す。そして、Linuxが、使えるものでさえあればフリーではないソフトウェアでも構わないという考え方のショーウィンドウとなることもなくなるだろう。

 ただし、手放しで感謝するというわけではない。問題のそもそもの発端は、ほかならぬマクボイなのだ。しかし、それを解消した点は評価したい。

 フリーではないソフトウェアは数多くあるが、そのほとんどはフリーソフトウェア版の開発を除いて、特別に注目を集めることはない。マクボイのBitKeeperが悪名高き危険なプログラムになったのは、そのマーケティング手法の故である。注目度の高いフリーソフトウェア・プロジェクトに使わせ、他の有償ユーザーを引きつけるという戦略に出たからなのである。

 マクボイは、自分のプログラムをフリーソフトウェア開発者に無償で提供した。しかし、それは、フリーソフトウェア開発者がそれをフリーソフトウェアのように扱えることを意味したわけではない。フリーソフトウェア開発者は料金を支払わなくてもよいという特権を与えられただけであり、自由を得たわけではなかったのだ。フリーソフトウェアを定義づける基本的自由、すなわち、目的が何であれプログラムを動かす自由、随意にソースコードを調べ変更する自由、複製を作り再配布する自由、改訂版を公表する自由がなかったのだ。

 フリーソフトウェア運動は、15年もの間、「ビール無料(フリー)ではなく、言論の自由(フリー)を考えよう」と提唱してきたと提唱してきた。しかし、マクボイの行為は、その対極にある。自由ではなく無償をちらつかせて開発者を誘ったのだ。フリーソフトウェア運動の先導者なら、この誘いを退けただろう。しかし、我らの仲間にも自由やコミュニティーよりも技術的利便性を優先する者がいて、彼らはこの誘いを受け入れたのだ。

 マクボイは、Linuxの開発に採用されるという大きな成果を挙げた。Linuxは最も注目を集めるフリーソフトウェア・プロジェクトだ。GNU/Linuxオペレーティング・システムのカーネルつまり基本要素だが、ユーザーはシステム全体と誤解していることが多いからである。そして、マクボイは、目論見通り、自分のプログラムがLinuxの開発に使われることで大きな広告効果を得たのだった。

 また、意図的かどうかは定かでないが、戦略的効果も大きかった。Linuxプロジェクトでの採用は、自由を拒絶するソフトウェアであっても有用でありさえすれば受け入れてもよいとフリーソフトウェア・コミュニティーに告げているからだ。しかし、もし1984年当時、Unixに対して同じ姿勢を取っていたとしたら、今日のわれわれはあっただろうか。影も形もあるまい。もし、われわれがUnixの代替を作るのではなくUnixの使用を受け入れていたら、GNU/Linuxのようなシステムは存在しなかっただろう。

 もちろん、Linux開発者たちの選択は実用上の理由からのものだろう。わたしはその理由を云々するつもりはない。彼らは自分たちにとって何が有用であるかを承知しているからだ。しかし、それが自分たちの自由――彼ら以外のコミュニティーが追求しているもの――に与える影響を考慮しなかった。あるいは、それに価値を置かなかったのである。

 フリー・カーネルはおろか、完全なフリー・オペレーティング・システムでさえ、コンピュータの利用に自由をもたらすには不十分である。それを実現するには、さまざまなフリーソフトウェアが必要なのだ。しかし、フリー・アプリケーション、フリー・ドライバ、フリーBIOSなどのプロジェクトの中には、大きな障害に阻まれているものがある。フォーマットやプロトコルをリバースエンジニアリングするか、さもなければ企業にその文書化を求めねばならない。あるいは、特許を回避したり撤回させたりしなければならない。あるいは、ネットワーク効果に対抗しなければならないのだ。成功するには、堅い決意が必要であろう。優れたカーネルが望ましいのは当然である。しかし、それは、他のソフトウェアの世界を自由にする動きを阻害してまで望むべきことではない。

 BitKeeperの使用が論争になったとき、マクボイはまともに答えなかった。例えば、彼は会社が業務を止めたらフリーソフトウェアとしてリリースすると約束した。つまり、彼の企業が業務を続ける限り、そうはしないということである。また、Linuxの開発者たちは、こう応じた。「もっとよいものを開発してくれたらフリープログラムに切り替えるよ」と。つまり、「混乱を起こしたけど、対処するつもりはない」と言うのである。

 幸いなことに、Linux開発者のすべてがフリーではないプログラムを受け入れてもよいと考えていたわけではない。また、フリーの代替を求める声が消えることはなかった。そして、ついに、アンドリュー・トリジェルが相互運用性のあるフリープログラムを開発し、Linux開発者たちがフリーではないプログラムを使う必要性は霧消したのである。

 初め、マクボイは怒り脅迫に出たが、最後は尻尾を巻いて退散することを選んだ。すなわち、フリーソフトウェア・プロジェクトへの無償提供を止め、Linux開発者たちは他のソフトウェアに移行することになったのである。Linuxでの使用が終わる今、マクボイのプログラムには、それがフリーとならない限り、道義に反するというレッテルがついて回ることだろう。また、Linuxが販促に荷担することも、自由の価値をないがしろにする手本となることもなくなるだろう。マクボイのプログラムは、過去のことになろうとしている。

 しかし、それから学んだことを忘れてはならない。非フリープログラムは、われわれとわれわれのコミュニティーにとって危険である。いかなる形でも受け入れてはならない。

Copyright 2005 Richard Stallman. Verbatim copying and distribution of this entire article are permitted worldwide without royalty in any medium provided this notice is preserved.



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