日本のPCの流れが変わった“DOS/Vが生まれた日”温故知新コラム(2/2 ページ)

» 2007年10月30日 07時00分 公開
[大河原克行,ITmedia]
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DOS/Vの普及、そして1つの時代が終わる

 OADGが具体的な施策として打ち出したのは、IBMが開発したPC用OS「DOSバージョンJ4.0」に対応する基本ソフトのマイクロソフトからの供給、IBMパーソナルシステムに関する技術情報および互換性テスト・サポート、IBMのディスプレイ規格であるVGAに準拠した画面制御論理モジュールをIBMおよびアスキーから提供すること、の3点だ。

 DOSバージョンJ4.0は、のちに「DOS/V」と呼ばれ、Windows時代に突入した現在でも、DOS/Vの名はPC誌の誌名やPCパーツ販売店の名称として使われるなど、国際標準プラットフォームを指す一般名詞として使われている。

 DOSバージョンJ4.0自体は、OADGが発足する前の90年11月から市場に投入されており、すでにこの時点で約300本の日本語対応アプリケーションが存在したほか、同OS上で動作するWindows3.0も市場投入されていた。

OADGが開催した1991年7月23日の記者会見。小林凱会長は会見の冒頭、「OADG設立の英断を果たした日本IBMに敬意を表したい」というものだった。

 上の写真は、OADGが同協議会の事業方針などを、報道関係者を対象に初めて説明した会見の際の模様。1991年7月23日に、東京・大手町の農協ビル(現JAビル)で行われたこの会見では、小林凱会長(三菱電機取締役、当時)が、日本のPC市場の現状などについて説明。さらに、分科会活動として、プリンタなどの周辺機器の共通規約の決定や、OADGのロゴマークの作成が進められた。5月に発足したアプリケーションソフトウェア分科会では、6月に互換性検証のためのテストセンターを設置し互換性検証活動を開始したことが報告される一方、8月にはソフトウェア開発ガイドの作成を行い、9月にはソフトメーカーを対象とした説明会を開催、さらに、Windows3.0用アプリケーション開発を支援することを明らかにした。

 OADGは、DOS/Vという有力な国際標準プラットフォームを得ることと、こうした標準化に関わる各種活動によって、着実に普及していった。1年半後にはOADG加盟企業は26社、推進登録企業は29社に達し、対応ソフトは約1700本、周辺機器が約500種。18社から161機種、累計15万台のOADGパソコンが出荷され、「OADG発足1年半で、日本における一大プラットフォームの基礎ができたものと考えている」(小林凱会長)とした。

1993年12月には、東京・晴海の東京国際見本市会場にて「DOS/V EXPO Tokyo」が開催された。この、初のDOS/V単独イベントの入場者数は当初目標の4万人を突破。日本、米国、台湾をはじめとするAT互換機メーカーなど59社のOADG仕様PCが展示された。

 この勢いは、95年に発売となったWindows95によってさらに加速。DOS/Vの流れを汲むプラットフォームが国内でも主要なポジションを占めるようになる。

 その後の動きは周知の通りだ。外資系を中心とした価格引下げ、Windowsの浸透によるプラットフォームの統一化によって、過半数を超えていたNECのシェアは大きく後退することになった。

 日本固有のPCからの脱却に、OADGが果たした意味は極めて大きい。標準化という流れを作り出したOADGは、2004年9月に休会。ここにも、1つの時代の終わりを感じずにはいられない。(肩書きはすべて当時のもの)

このコンテンツは、月刊サーバセレクト2006年9月号の記事を再編集したものです。


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