業界記者がつづる「故・秋草直之氏の思い出」部内アイドル度調査はNo.1だった(2/3 ページ)

» 2016年08月10日 17時20分 公開
[大河原克行ITmedia]
Photo 1996年の写真とのこと。後ろにあるのは「FM TOWNS」

 他愛のないことだが、筆者の記憶になぜか残っているエピソードがある。1993年10月のことだ。富士通が中国・北京の人民大会堂で民間企業初の単独展示会を開催するに当たり、北京に向かう成田空港で、秋草氏とばったりお会いした。

 筆者もその取材のために空港におり、多分、秋草氏も同じ便を待ってたいたのだろう。当時専務取締役だった秋草氏は、まだ若手記者だった私に声を掛けてくださり、別れ際に「これから床屋に行ってくるよ。最近時間がなくて行けていなかったから」と言い残して足早に去っていった。フライトまであまり時間がなかったことを記憶しており、わずかな時間も有効に使う秋草氏の姿勢に感じ入ったものだ。

 その後、筆者はちょこちょここの手法を使わせていただいている。海外渡航前や国内出張前に、ちょっとの時間を利用して空港の床屋に行くのだ。そのたびにいつも秋草氏を思い出す。そして、当時北京ではさっぱりしたヘアスタイルになった秋草氏に取材をさせていただき、中国をソフトウェア開発拠点として拡大する方針について伺ったことを思い出す。

Photo お別れの会で展示された部内アイドル度調査。秋草氏は人気ナンバーワンで、「秋草部長の低いボソボソ声をもっと聞きたい」「少年みたいな可愛さ」「秋草部長は私たちの永遠のアイドル」といったメッセージが並ぶ
Photo 関西へ赴任する際の女子社員からのメッセージも公開。「挨拶は腰を曲げずに膝の屈伸だけでするという秋草流がキュート」という声も。出張中の洗濯法や、間違えて女子トイレに入ってしまったときのエピソードが面白い

ソフト・サービス事業に着目し、時代の潮流を牽引

 秋草氏は、1938年12月12日生まれで栃木県の出身。実父は、日本電信電話公社(現NTTグループ)総裁を務めた秋草篤二氏である。1961年3月に早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業後、同年4月に富士通に入社。まだ「SE(システムエンジニア)」という呼び方がなかった時代からシステム開発の最前線で活躍した。富士通初の文系出身SEでもあり、ソフト・サービス畑を一途に歩んできた。

 1995年1月の阪神・淡路大震災の際は、専務取締役関西営業本部長として関西エリアを統括していた秋草氏は、災害対策本部長として現地で陣頭指揮を執った。また、コンピュータシステムのトラブルが懸念された2000年問題の節目では、業界団体である社団法人日本電子工業振興協会(現:一般社団法人電子情報技術産業協会)の会長を務めていたこともあり、2000年1月1日午前1時10分から赤坂プリンスホテルで開かれた同協会の会見で、秋草氏は「2000年問題に関して、大規模な問題は一つも発生していない」と業界を代表して宣言した。

Photo 2006年の世界情報基盤委員会に出席したときの秋草氏

 秋草氏は、早い時期から社長候補の一角と目されており、1988年に取締役に就任した際は「ソフトウェア・サービスビジネスを富士通の柱にする」と明言。そして、1998年に社長に就任して最初に取り組んだのは、ソフトやサービスを重視する企業への路線転換だった。

 これは前任の関澤義氏が打ち出した「ノンハードビジネス指向」を継承したものであり、富士通のオープン化への構造転換を大きくドライブする役割を担った。先行するIBMがサービス事業を中心とした事業モデルへと転換する中、富士通もそれを追いかけ、それまでは「サービスは無償」という意識が浸透していた業界に穴を開ける総合サービス体系の「PROPOSE」を発表。当時は「自殺行為」とまでいわれたが、サービスの事業化に取り組んだ。

 さらに「MISSION/DC」という新たなメインフレームのコンセプト、「MESSAGE 90’s」と呼ぶシステム連携コンセプトを同時に打ち出し、社長就任前から秋草氏がソフト・サービス事業を統括しながら、ノンハードビジネス化とオープン化を加速。社長就任後もこれに力を注ぎ、現在につながる富士通の重要な変革を指揮してきた。

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