上司が裏金を受け取っていたら……チクっていいの?読めば分かるコンプライアンス(9)(3/4 ページ)

» 2008年09月09日 12時00分 公開
[鈴木 瑞穂,@IT]

セクハラ上司に制裁を!

 その翌朝、中田はその日の朝に届いた河田あての郵便物を整理して河田のデスクに届けた。河田は10時からマネージャ会議で席を外していたので、書類が散乱しているデスクの上に郵便物を置く空きスペースを探していたら、1枚の「発注書」が目についた。それは、アウトレット業界に関する市場動向のリサーチを「朝日興業」という広告代理店に発注する旨の書類だった。

 「朝日興業」は、河田が3回に1回は仕事を発注している会社だったので、中田の記憶に残っていたのだ。そして、奇妙なのは、今回のリサーチは3日前の企画会議で承認され、河田が担当者に任命されたばかりで、これから相見積もりの作業に入る段階だということだった。

中田 「(相見積もりも終わっていないうちから、なぜ発注書があるのだろう?)」

 不思議に思った中田は、その発注書に目をこらした。右上の日付欄は空欄になっていて、その下に押されている社印が少し右方向にずれていて、左下の余白部分にボールペンの跡のような1センチくらいの短い線があった。

 そのときは別に深く考えずに、その発注書のことはすぐに忘れてしまった。しかし、その1週間後、河田に呼ばれてデスクに行ってみると、相見積もり作業も終わってこの会社に発注することにしたから、この発注書をファクスで先方に送った後、相見積もりの書類とともにファイルしておけ、といわれた。

 渡された発注書を見ると、それは「朝日興業」への発注書であり、日付欄には昨日の日付が手書きで記入されていて、その下に押されている社印が少し右方向にずれており、左下の余白部分にボールペンの跡のような1センチくらいの短い線があった。明らかに、1週間前に河田のデスクの上で見た、あの「発注書」だった。

 中田は、いや?な気持ちに襲われた。不正の臭いをかいだような気分になった。

 いままで「朝日興業」へのリサーチの発注が何度かあったことを思い出し、そのときのプロジェクトのファイルをキャビネットの奥から引っ張り出して調べてみた。どのファイルでも、相見積もりの書類がそろっていて、「朝日興業」は最安値か2番目の安値を提示しており、形式的には「朝日興業」に発注したことに瑕疵(かし)はないように思われた。

 ただ、「朝日興業」以外の相見積もり参加企業は、その都度違っているにもかかわらず、提出されている見積書の印象が似通っていることに違和感を覚えた。

ALT 中田 玲子

 また、あらためてファイルを調べてみると、「朝日興業」に発注したプロジェクトの相見積もりの段階は、河田の一番の取り巻きである本間というグループリーダーと2人で取り仕切っており、相見積もりを終えて「朝日興業」へ発注を掛けた後で、ほかのプロジェクトメンバーを参画させていた。

 そして、思い出してみると「朝日興業」に発注したプロジェクトでは、河田組のメンバーの慰労会と業者の接待の回数がほかのプロジェクトに比べて多かった。それにもかかわらず、中田は河田から慰労会と接待の経費精算を命じられた記憶はなかった。

 だが、それらはいずれも状況証拠だ。見積書の印象が似通っているといっても、それは単に中田の感覚であり、見積書自体はどの会社が作っても、大体似たようなものになるといわれればそれまでだった。

 相見積もりの作業を本田と2人で仕切っていたことも、2人で十分だからそうしたといわれればそれまでだ。慰労会と接待の経費精算を命じられなかったことも、自腹を切って払ったのだといわれれば、それまでだった。

 しかし、中田にとって、相見積もりが行われる前にこの「発注書」を目にしている以上、河田が相見積もりを終える前に「朝日興業」への発注を決定していたのは、紛れもない事実だった。この事実を中心に据えて、その周りにこれらの状況証拠を並べてみると、中田の頭に浮かんでくるのは、河田が「朝日興業」とグルになって「裏金作り」をしているのではないか、という推測だった。

 中田は悩んだ。「裏金作り」という指摘はかなり深刻である。いわば相手を犯罪者呼ばわりすることであり、もし事実でなかったら、自分が侮辱罪に問われる可能性が出てくるだけではなく、相手の人生と人格を貶(おとし)めるという、人間としてやってはいけないことをしでかすことになる。

 しかし、いかに状況証拠とはいえ、河田が不正を働いていることに対する確信は、日に日に増していった。自分の心の奥底に眠らせていた正義感が目を覚ましてきた。もし自分のカンが当たっているのなら、河田のしていることは決して許されてはならない。自分のカンが外れていることを恐れて何もしなければ、それは河田の不正を許すことになるのではないか。

 中田はついに決心した。

中田 「(河田が不正を働いている可能性はゼロではない。やはり、コンプライアンスヘルプラインに通報して調べてもらうべきだ。もしカンが外れていたのなら、どんな責任でも取ろう)」

横領犯にはどう対応すればよいのか?

 法務部・コンプライアンス推進室の小林勝昭は、コンプライアンスヘルプラインの電話を置いて、いまの通報内容のメモを読み返した。

 通報者は、不動産系営業グループの中田と名乗っていた。

 責任を持って通報すべき内容だから匿名ではなく実名で通報する、といっていた。通報内容は、河田マネージャの裏金作りの可能性というものだ。中田は、あるのは状況証拠だけで確たる物証はなく、自分の勘にすぎないと断っていたが、相見積もり終了前の発注書を目にしたという事実は、状況証拠だとしても証拠能力はそれなりにあるように思われた。

 実は、河田についての通報は過去にも一度あった。ただし、そのときはヘルプライン業務の提携先の弁護士事務所に匿名でかかってきた通報だったし、その内容も赤坂で河田が業者の営業マンと高級クラブに入って行くところを目撃した、という漠然としたものだったので、特に対応はしなかった。

ALT 赤城 雄介

 しかし、2年前に河田がマネージャになってから5人もの退職者が出ていることや、その都度河田が昔の仲間をリクルートしていることなどは、社内のうわさネタとして時折取りざたされていたし、小林自身、不動産系グループの閉鎖的な雰囲気は気になっていた。そこへもってきて、河田についての2度目の通報である。しかも今回は、匿名でもないし内容にも説得力が感じられた。

 小林は早速、赤木法務部長に会い、中田の通報内容を詳しく報告したうえで、コンプライアンス推進室として正式に調査することについて承認を得た。

 小林はまず、「朝日興業」へ発注したプロジェクトのファイルを詳細に調べることにした。中田の通報によると、過去にも3件ほどそのようなプロジェクトがあったとのことだ。それらを詳細に調べれば、証拠になるような事実が見つかるかもしれない。その次に、中田と会って詳しく事情聴取することにした。

悪あがきの代償

本間 「もしもし、河田さん? 本間ですけど、いま話せますか?」

河田 「おう、本間か。いま、時間調整でスタバだよ。で、どうした?」

本間 「いまですね、法務部の小林とかいうスタッフが来ていて、アウトレット業界のリサーチ業務のファイルを調べているんですよ。それと、去年のオフィスビル業界のリサーチとマンション業界のリサーチのファイルも見せろっていってるんです」

河田 「法務部が? 何で?」

本間 「ヘルプラインの通報により、調べたいことがあるからっていってるんです」

河田 「通報? 何の通報だ?」

本間 「コンプライアンスヘルプライン運用規定に従って守秘義務があるから、詳しいことはいえない、というんですが……。あの件じゃないかと思うんですよ」

河田 「あの件?」

本間 「調査しているリサーチ業務は、全部、朝日興業絡みなんですよ」

河田 「……!! 軍資金のことか!? 軍資金がバレたというのか!?」

本間 「分かりません。ただ、通報があったのは事実でしょうし、通報者は朝日興業のことを通報したんだと思うんですよ。……大丈夫でしょうかね?」

河田 「いいか、お前は何を聞かれても、何も答えるなよ。おれはこれからすぐオフィスに戻る!」

 本間との電話を切った河田は、次の打ち合わせ相手の業者にキャンセルの連絡をして、タクシーをつかまえてオフィスに向かった。

河田 「(中田だ! ちきしょう!! 赤坂の仕返しに通報したに違いない。だが、一体どんな証拠をつかんだというんだ? すぐにばれるようなヘマはしてないはずだが……。とにかく、このままじゃ済まさねぇ! いつかとっちめてやろうと思っていたが、もう待ってはいられない。いますぐクビにしてやる!)」

 オフィスに着くと、法務部の小林は必要なファイルを借り受けて、法務部のオフィスに戻った後だった。本間に話を聞いても、いまのところ、小林からは何の質問も指示も要請もないとのことだった。

 河田は、すぐに中田を会議室に呼びつけた。

河田 「中田くん、君だね、法務部に通報したのは」

中田 「何のことかしら……。と、とぼけるつもりはありません。私も責任を持って通報しましたから、逃げも隠れもしませんわ」

河田 「ああ、責任は取ってもらうよ、しっかりとね!! その前に、何を通報したんだ!? どんな証拠があるっていうんだ!?」

中田 「いま、法務部が正式に調査していますから、私から通報内容をしゃべるわけにはいきません」

河田 「て、てめぇ、おとなしく聞いてりゃいい気になりゃぁがって! このおれをおとしめようとするなんざ、何様のつもりだ、このやろう!」

中田 「あら、本性が出てしまったようですね」

河田 「やかましい!! てめぇみてぇな女はクビだ!! へっ、派遣社員だから話ゃ簡単だ。派遣会社にはすぐにキャンセルを入れるから、明日から来る必要はねぇ。2度とそのツラァをおれの前にさらすんじゃねぇ!! 分かったか!!」

中田 「こっちだって、セクハラまがいのさえない口説きは大目に見てやるけど、不正行為は許さないわよ。派遣のキャンセル? 上等だわ。やれるもんならやってみなさいよ!」

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