自分探し、2つのアプローチちきりんの“社会派”で行こう!(1/2 ページ)

» 2009年09月14日 08時00分 公開
[ちきりん,Chikirinの日記]

「ちきりんの“社会派”で行こう!」とは?

はてなダイアリーの片隅でさまざまな話題をちょっと違った視点から扱う匿名ブロガー“ちきりん”さん。政治や経済から、社会、芸能まで鋭い分析眼で読み解く“ちきりんワールド”をご堪能ください。

※本記事は、「Chikirinの日記」において、2007年8月6日に掲載されたエントリーを再構成したコラムです。


 “帰納”と“演繹(えんえき)”という言葉がありますよね。「いくつかの個別の事例から一般原則を導く」のが帰納で、「一般原則を適用して、論理的推論の結論として個別例に行き着く」のが演繹だと思います。

 ちきりんはモノを考える時、圧倒的に帰納的に考えることが多いです。反対に演繹的に考えるのは苦手だし、気持ち悪いです。

 「この前提が正しければ、個別にはこうなるはず」(演繹)という時、一番重要なのは「その前提は本当に正しいのか?」ということです。でも、その前提自体が仮説であり、証明されていない場合は多い。それなのに、その前提に基づいて論理展開するということが、ちょっと強引な気がするのです。

出典:新宿ピカデリー

 例えば演繹的な行動だと、「自分はこういうタイプの映画が好きだ」という前提の下に、そのタイプの映画ばっかり観るということになりがちです。「私はホラーが好き+この映画はホラー映画だ→私はこの映画が好きなはずだから観に行く」という行動。よくあるパターンですよね。

 でも、こういう行動をしていたら「世の中にはほかにもすばらしいものがあるかもしれない」ということに気が付かない可能性があります。ほかのジャンルにも「案外、私ってこういうものが好きだったんだ」と感じられるような新しい境地があるかもしれないのに、それを事前にブロックしてしまいそう。「あの映画は恋愛ものでしょ? 私は関心ないから見ないわ」みたいになりかねない。

 ちきりんとしては、むしろランダムに映画を観て「私はこれが好き!」と思えるモノの共通項を探し、一般原則として「私の好きな映画はこういうものらしい」と考える“帰納的な思考&行動”の方が心地良いです。こちらの場合はいったん仮説ができた後も、さらにさまざまな映画をランダムに観て個別事例を積み重ね、自分の好きな映画の共通点をさらに追求していく、という行動ができます。そういう帰納的な思考で行動した方が、新しい分野に世界が拡がるし、今まで知らなかった素敵なものに出会える可能性も高いと思うのです。

 というわけで、ちきりんが「私はこーゆーものが好き!」と言う場合、それは極めて帰納的に導かれた結論なので、「それが前提として使われて、ちきりんの行動に影響を与える」ということは、まずありません。「●●が好き!」とは言いますが、実際にやっていること、選ぶことは必ずしも●●だけではないのです。こういう態度は、良く言えば「柔軟性がある」「幅が広い」となりますが、反対に「いいかげんな奴」「言うこととやることが違う」とされる場合もありますけどね。

 しかし、自然科学系の学問では、演繹的な考え方は不可欠です。一定の仮説に基づいて、その仮説を証明するための観察や実験に一生を捧げるような人がいないと科学は進歩しません。「観察したことから言えること」(帰納的思考)だけでは到達できる範囲が狭すぎるからです。

 より高いレベルでの一般原則を証明するためには、「この前提が正しければ個別にはこうなるはず」という演繹的な思考に基づく実験や観察が必要で、それには時に人の一生を超えるほどの長い期間が必要であったり、国家予算レベルのお金を注ぎ込んで大規模な実験施設を作ることが必要です。帰納でしか考えないちきりん脳は自然科学には向いていないと言えます。

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