自分探し、2つのアプローチちきりんの“社会派”で行こう!(2/2 ページ)

» 2009年09月14日 08時00分 公開
[ちきりん,Chikirinの日記]
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新卒学生の誤解

 「帰納と演繹のどちらがいいか」というのは、「その人にとって仮説を否定しやすい方がいいのではないか」と思います。いずれの方法にせよ、仮説なんて間違いまくっているものなので、それを修正しやすい方法で考えるべきだと思うのです。そうしないと間違った仮説にしがみついている間に過ぎる(人生の)時間が無駄になってしまいます。

 自然科学系の学者なら、一生を投じた実験が「仮説が間違っていたために」成功しなくても本望なのかもしれませんが(本望ではなくても、覚悟していたことなのかもしれませんが)、個人が自分の人生を間違っているかもしれない仮説にかけ続ける必要はないだろうと思うのです。

 身近な例で考えてみましょう。例えば新卒学生の多くは「自分にはこういう職業が合っている」という思いこみ(仮説)を前提として就職活動をするわけです。「自分は●●な仕事が好きである+この会社の仕事は●●な仕事である→自分はこの会社の仕事が好きなはずだから応募する」という感じです。

 でも、その会社に入社して希望の仕事を実際にやってみたら、「実はその仕事が合っていなかった」ということもよくありますよね。その時に「自分は●●な仕事が好きである」という前提・仮説を疑わないと、「この仕事が自分に合わないのは、この会社の仕事が●●な仕事ではないからだ」と考えることになります。時には「●●な仕事だと説明されたから入社したのにだまされた」みたいな話になります。

 そして、「本当に●●な仕事をするために、自分は会社を変えるべきだ」という話になる。「自分は●●な仕事が好きである」という前提は間違っておらず、「この企業の仕事は●●な仕事である」という方が間違っていた、と考えるわけです。

 でも、「いや、そーじゃなくて、『自分は●●な仕事が好きである』という最初の前提・仮説が間違っているんじゃないの?」とも思うのです。前提の方が間違っていたら、何度転職を繰り返しても満足できる仕事にはたどり着けませんよね。

 「自分には●●な仕事が合っている!」という思い込み的な前提に基づいて職を転々とするくらいなら、仮説や前提を持たずに様々な職を体験してみて、後から「つまり、オレにはこーゆー仕事が向いてるの“かも”」って言っている方がいいんじゃないかと。「こんな種類の仕事が、こんなに面白いとは思わなかったよ」とか「自分がこういうものが好きな性格だとは気が付いていなかったよ」という感じで、「個別事例からだんだん自分のことが分かってくる、という方向の方がいいんじゃないの?」と思うのです。

 科学者なら自分の信じる仮説のために一生を捧げるのもありでしょうが、個人の人生に関しては一般原則を見つけることはゴールでも目的でもありません。だったら、若い時から特定の仮説(例:オレはこういう人間だ!)に固執するより、いろんな個別体験を重ねる中で、人生のずうっと後になってから「オレってこういう人間だったんだな〜」という一般原則がぼんやり浮かんできました、というパターンでもいいんじゃないかと。

 そんな感じ。

 「あんまり“仮説“にこだわらないで!」ってことかな。

 そんじゃーね。

著者プロフィール:ちきりん

関西出身。バブル最盛期に金融機関で働く。その後、米国の大学院への留学を経て現在は外資系企業に勤務。崩壊前のソビエト連邦などを含め、これまでに約50カ国を旅している。2005年春から“おちゃらけ社会派”と称してブログを開始。

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