ある大物アーチストと歩んだ日々……彼から学んだことは? 制作プロデューサー・村田努さんあなたの隣のプロフェッショナル(3/5 ページ)

» 2009年09月18日 10時00分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

 裏方のスタッフさんというのは、アーチストと異なって、ホテルや旅館の一室にすし詰め状態で雑魚寝するイメージがあるが……。

 「いや、そんなことはなかったですよ。ちゃんと1人1室でした」と苦笑した村田さんは、こう続けた。

 「毎日の生活リズムとしては、ホテル→コンサート会場→飲み屋という三角地帯を行ったり来たりです」(笑)

 このころ(30歳前後)の村田さんの年収は、どのくらいだったのだろうか?

 「月々決まった額の給料をもらう仕事ではないですし、流動的なんですが、平均すると、年収300〜400万円くらいだったかな」

 バックバンドのマネジャーとして信頼を積み重ねていった村田さんは、やがて、CHAGE and ASKAのマネジャーになる。

CHAGE and ASKAと過ごした日々

 「CHAGE and ASKAとは、多くの時間一緒に過ごすことになったんですよ」と淡々と語る村田さんであるが、超大物アーチストと四六時中一緒にいる、というのは気も遣うだろうし、相当にしんどいのではないだろうか?

 「時期的には、『SAY YES』(同曲は1991年、フジテレビ系列のドラマ『101回目のプロポーズ』主題歌として大ヒット。セールス約300万枚、オリコンチャート13週連続1位)、『YAH YAH YAH』が出た後でしたね。

 彼らは良い意味で常識人なんですよ。ファンに見られていることを意識して、常日頃、真面目な雰囲気でした。職人的で地味な雰囲気と言ってよいかもしれません。ですが 基本的には楽しい人たちです。2人が来ると、その場の雰囲気がパッと明るく前向きになるし、笑いの絶えない現場でもありました。2人の音頭でスタッフに“どっきり”を仕掛けるなんてことも良くありましたよ。素晴らしき連携で。

 振り返ってみると、2人から理不尽な扱いを受けた経験はありませんね。ふだんの生活では、2人はまさに兄貴分という感じでした。ただ、媒体との折衝を任されたりしましたから、当然のことながら、仕事の質は厳しく求められましたね。

 でも私にとっては、初体験の仕事だったので、正直、戸惑うことも多かったですし、実際、失敗もありました。例えば、ラジオの生放送に間に合わなかったり」(笑)

 静かに語り続ける村田さんだが、この当時のCHAGE and ASKAの驚異的な人気とすさまじい過密スケジュールを彼はそばで支えていたのだ。

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