数十億円のカネを捨ててまで、マネックス証券を設立した理由35.8歳の時間・松本大(3/6 ページ)

» 2010年07月02日 08時00分 公開
[土肥義則,Business Media 誠]

 中学・高校も男子校で、大学も男子生徒ばかり。そして埼玉県で生まれ、ずっと同じところにいた。ボクの人生は、いわば“小さなコップ”の中で生きているといった感じ。しかしそのコップから飛び出して、ニューヨークに住むことに。世界各国のモノを食べて、大好きなジャズを聴いたり。カウンターしかないような狭いジャズ・バーで有名な人の演奏を聞いたときには感動しましたね。しかもたった5ドルで、楽しめる。不思議なことに英語は話せなくても、バーでお酒だけは注文できるんですよ(笑)。少し青臭い表現ですが、そのころのボクは人生の青春を走っていたと思いますね。

 ニューヨークで1年ほど研修を受けたのですが、相変わらず英語はダメ。ある日、同僚と飲みに行ったのですが、その彼が驚いていました。「お前、そんなに英語ができないのか!?」と。ただ仕事は計算が中心だったので、なんとかなりました。数字について話すことはできたのですが、日常会話は全くダメでしたね。

 そのころ日本では、デリバティブ(金融派生商品)が解禁されることになっていました。しかしソロモン・ブラザーズ・アジア証券の東京支店ではデリバティブの専門家は外国人しかいませんでした。ほかの同期は6カ月ほどで東京に帰ったのですが、ボスから「お前はニューヨークに残れ」と言われ、デリバティブのトレーニングが始まりました。当時、「トレーディングの神様」と呼ばれたジョン・メリウェザーのトレーダーチームがあり、そのチームを補佐することに。そこでマーケットに対する見方など、さまざまなことを教わりました。結局、ニューヨークには1988年の5月までいました。

仕事のできる人間は“カッコイイ”

東京証券取引所

 日本に帰ってからは、よく働きましたね。機関投資家を中心にデリバティブの商品説明などに回るのですが、毎日5〜6社足を運んでいました。オプションとは何か? 先物とは何か? といった説明をするのですが、同時にタイムリーな情報も提供していました。朝早く出社し、シカゴに電話。そして昨日の晩にどういったことが起きたなど、1枚の紙にまとめていました。また「今晩はこういった指標がでますから、こういった取り引きが面白いかもしれませんね」といったアドバイスもしていました。

 当時、会社は「後輩を教育しよう」という仕組みがなかったので、誰も仕事のイロハを教えてくれません。我流でこうした情報をまとめ、先輩たちにもその情報を1枚の紙にして配っていました。そのうち先輩たちも便利に感じてきて「こういう情報が知りたいんだけど……」といったリクエストが出てきました。中にはお客さんのところに、1枚の紙をそのままファックスで送る先輩もいましたね。そうしているうちに、先輩も「松本は必要な人間だ」と思ってくれるようになったのではないでしょうか。徐々に仕事が増えていきましたね。

 なぜそんなに仕事をしていたかというと、ボクは何かに没頭するのが好きだから。また大学のときはずいぶん遊んだし、社会人になれば仕事ができる人間の方が“カッコイイ”と思っていた(笑)。さきほどの話に戻りますが、小さなコップにいた自分が、外に出たのでとにかく楽しくてしょうがなかったんだと思います。まるで大冒険を楽しむかのように。

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