「どうか、加害者にはならないで」――。殺された側の声を聞く吉田典史の時事日想(3/4 ページ)

» 2010年10月01日 08時00分 公開
[吉田典史,Business Media 誠]

 昨年、刑務所から弁護士のもとに手紙が届いたという。差出人は殺した本人だった。松村氏は、弁護士から手紙を受け取っていない。「遺族に反省しているフリをし、仮釈放をしてもらうことを願っているのだろう。弁護士の入れ知恵のパフォーマンスとしか思えない。だが、わたしたちの考えは変わらない」

 会に所属する遺族たちは「加害者に反省してほしい」とは願っていないという。殺された側の無念や怒りは、「反省」といった言葉でごまかせるものではないそうだ。「少なくとも殺人事件については、遺族は身内を殺された以上、加害者には自らの命で償うことしか、求めていない」

どうか、加害者にはならないでほしい

 松村氏はこうも言う。「死刑になっても、わたしたちの心は癒やされない。殺されるということが、遺族の心をどのくらいむしばむのかを知ってほしい。わたしは、孫を殺した人とこの空の下、同じ空気を吸いたくない。家族は生涯、こうして苦しんでいく。同じ命でありながら、罪なき被害者が死んでいく。一方で、加害者は生き残っている」

 こういう重い現実を突きつけられると、冒頭で述べたような弁護士の発言、つまり「平和な時代に、人を殺す設備(=死刑場)があることを知ると、国民はおののく」がいかに被害者の感情を逆なでするものであるかが分かる。千葉前法務大臣らが進めた死刑場公開の試みも、公平という考えが希薄であったと言わざるを得ない。

 松村氏は、メディアのあり方にも疑問を呈した。事件が起きた後、多くのメディアが松村氏ら遺族のことを報じた。それらの多くが誤報であったという。「取材を受けていないのに、記事が次々と掲載された。挙げ句の果てに、被害者であるわたしたちの側にもそれなりの問題があったといった意味合いのことを書かれた」

 しかし事件から数カ月間は、メディアに抗議をするような気力がなかったという。「家族が殺されれば、しばらくは普通の精神状態で生活はできない。誹謗(ひぼう)中傷を受けても、結局は泣き寝入りをするしかない」と当時を振り返る。

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