Interview:三保谷友彦「倉俣史朗を語る」(2/2 ページ)

» 2011年04月15日 17時39分 公開
[草野恵子,エキサイトイズム]
エキサイトイズム
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三保谷さんと倉俣さんは、職人とデザイナーとしての理想的な関係を築いていたと感じます。

 俺は倉俣教の第一号信者で、子分だから(笑)。弟子はたくさんいるけど、子分は俺しかいない。倉俣の印半纏は、僕と倉俣さんだけが持ってたんですよ。印半纏っていうのはお店(おたな)から出入りの職人にあげるもの。洒落で「つくってくださいよ」といったら「そんな金無いもん」って。じゃあ「僕がつくってもいいですか」っていったら「いいよ」って。

 それで、倉俣家の家紋っていうのは、八角形に「二」という字なんだけれど、倉俣さんはグラフィック的にそれがイヤで、丹下左膳と同じ、六角二文字がいいと。「家紋変えちゃっっていいんですか?」っていったら「いいよ」って(笑)。

 僕が羽二重で、倉俣さんが紬で、生地を変えて同じ染めでつくった。倉俣さんは、そういうことも楽しむ、洒落っ気のある人。倉俣さんの紬は、葬儀のときにお棺の中にいれてもらったから、もうありません。今回の展覧会のオープニングで僕は半纏を着て出たけれど、もう着ることもないだろうね。

エキサイトイズム 硝子の椅子(1976年)

今、もし倉俣さんが生きていたとしたら、どんな仕事に取り組んでいたと思いますか。

 何しろ倉俣さんは江戸っ子だから、新しもの好きで、何でも最初にやろうとしていた人だからね。本質を見抜く力がすごいから、限界もぱっと分かるんだと思う。その限界を越えるものを、つくろうとしていた。

 例えば、「硝子の椅子」(1976年)。板ガラスの小口を透明に接着できなかったのが、紫外線を当てれば透明で硬くなる接着剤ができて、それで美しく板ガラスを組むことができるようになった。その技術を見て、倉俣さんはたった30分で「硝子の椅子」のデザインを描き上げた。

 乃木坂の「ルッキーノ」(1987年)では透明のプリント配線ができないかと、さんざんやっていた。インゴ・マウラーが特許を取ったとかいってるけど、そんなもの、とっくの昔に倉俣さんはやってる。

エキサイトイズム

 うちが2年前にアクシスギャラリーで行った「三保谷硝子店 101年目の試作展」では、倉俣さんがアクリルで制作した「ルミナスチェア」をガラスでつくりました。これは最高の技術で、ほかではできないもの。曲げることはできたとしても、場所を決めてここに座面を作り出すのは、まずほかではできない。

 もし今、倉俣さんがいたら、全然違う形のガラスの曲げ物をやっていたでしょうね。リサイクルのガラスでも、きれいなものをつくっているんじゃないかな。

エキサイトイズム ルミナスチェア2004(2004年)と三保谷友彦氏

PROFILE:三保谷友彦

1945年東京・霞町生まれ。東京・西麻布の三保谷硝子店(創業明治42年)の3代目。1960年代末、倉俣史朗との出会いにより、ガラスの可能性に開眼する。以降、ガラスという素材の可能性を追求し、建築、インテリア、アートなど幅広い分野のトップクリエイターのものづくりをサポートしている。


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