アスキー総合研究所所長の遠藤諭氏が、コンテンツ消費とデジタルについてお届けします。本やディスクなど、中身とパッケージが不可分の時代と異なり、ネット時代にはコンテンツは物理的な重さを持たない「0(ゼロ)グラム」なのです。
本記事は、アスキー総合研究所の所長コラム「0(ゼロ)グラムへようこそ」にて2011年02月17日に掲載されたものです(データなどは掲載時の数値)。遠藤氏の最新コラムはアスキー総合研究所で読むことができます。
米国の2つの大学の研究者が行って、話題となった実験がある。数人の若者にバスケットボールをしてもらい、別の数人に「60秒間に何回パスをしたか?」を数えてもらう。その最中、なぜか着ぐるみのゴリラが現れてコートの中を歩きまわり、こちらを向いて胸をボコボコボコと叩いて去っていく。実に異常な出来事が起きたわけだが、見ている側の約半数は、ゴリラが入ってきたことに気がつかなかったという(『Scientific American MIND』“How Blind Are We?” June 2005、参照リンク)。
そんなことあるの? と思われる方は、友達や同僚を使って似たような実験をすることも可能だ。数百字の英文に含まれる「f」の文字を数えてもらう。すると「if」や「of」を見落としてしまう人がかなりの割合で出てくるのだ(文章の内容にもよるが)。人間というのは、知る必要がないと思っていることは、たとえ相当に強烈な信号であっても頭に入ってこない。これを、不注意的盲目という。
2000年代中盤以降のネット業界について、「Web 2.0」ということが盛んに言われた。Web 2.0とは、米国で「ネットバブル崩壊後も生き残ったサービス」に共通する特徴を捉えたもので、その主役はGoogleだった。しかしWeb 2.0以降、ネットがさらに大きな変貌を遂げているのはご存じのとおりだ。プレイヤーは、Apple、Facebook、ソーシャルゲーム各社、Twitter、Foursquare、Netflix、Groupon、Evernote……。もっと多くのサービスを挙げられる人も、少なくないだろう。
ネットが変化を続けているのと同じように、ネットと関係することでリアル社会が変化することも指摘されてきた。Web 2.0が唱えられた同じ時期には、トーマス・フリードマンが、ネットによってホワイトカラーの仕事から“距離”が消失し、アメリカ人とインド人が同じフィールドで戦わなくてはならなくなったと『フラット化する世界』(伏見威蕃訳、日本経済新聞社刊)で書いた。
ジェームズ・スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』(小高尚子訳、角川書店)は、ひとりひとりの個人の意見の積み重ねが価値を持ちえること、それがネット時代になって顕著になったと述べている。ローレンス・レッシグは『REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方』山形浩生訳、翔泳社刊)で、商業経済と共有経済がリミックスしていくと指摘している。
しかしネットの世界において、これらよりも大きなインパクトを与えつつあるのが「ソーシャルメディア」だ。これについては目下、事態は「進行中」であり、その解釈も変化している。こうした議論は、ネットとは「コンピュータのネットワーク」ではなく、「人と人のネットワーク」だったという結論に向かっていると思う。
Copyright© ASCII MEDIA WORKS. All rights reserved.
Special
PR注目記事ランキング