若手社員に欠けている“あこがれモデル”(2/3 ページ)

» 2011年12月06日 07時59分 公開
[村山昇,INSIGHT NOW!]
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自由を敬遠する底には怠惰や臆病がある

 幸いにも日本には徴兵制はありません。自分の人生の時間は100%、自分が自由に使えます。しかし逆に、そうしたありあまる自由に対して、私たちは戸惑ったり、敬遠したり、負担に感じたりと、どうも具合がよくないのです。

 「あこがれるものは特にない」「やりたいことが分からない」「会社の中で与えられた仕事をとりあえずきちんとやるだけ」「そういえば働く目的って考えたことがない」……。目の前には自由という大海原があるにもかかわらず、漕ぎ出すことができないで浜辺で逡巡(しゅんじゅう)している場合が多いのです。

 ピーター・ドラッカーは次のように言います。「自由は楽しいものではない。それは選択の責任である。楽しいどころか重荷である」(『ドラッカー365の金言』より)。

 また、エーリッヒ・フロムもこう指摘しました。「(近代人は)個人を束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していない。……かれは自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるか、あるいは、人間の独自性と個性にもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる」(『自由からの逃走』)。

 学びたいものは何でも学ぶことができる、なりたいものには何でもなることができる(もちろん、そうなる努力と運があってのことですが)──こういう自由な環境下にありながら、なぜ私たちはそれを敬遠してしまうのでしょうか。

 その大きな理由の1つは、自由には危険やら責任やら、判断やらが伴うので、そのために大きなエネルギーを湧かせる必要があるからでしょう。

 人は自由そのものを敬遠しているのではなく、それに付随する危険や責任、判断、エネルギーを湧かすことに対して、面倒がり、怖がっていると考えられます。

 選ばなくて済むといった状況の方が、基本的にラクなのです。確かに、日常生活や仕事生活で、大小のあらゆることに対して、事細かに判断をしなくてはならないとしたら、面倒でたまりません。多くのことが、自動的に制限的に決められて流れていくことも場合により望ましくあります。

 しかし、人生に決定的な影響を与える職業選択と、日々の仕事の創造において、その自由を敬遠するのは、1つの怠慢や臆病にほかならないでしょう。

丸山真男著『日本の思想』

 丸山真男は強く言います。「アメリカのある社会学者が『自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし自由を擁護することに比べて、自由を市民が日々行使することはさらに困難である』といっておりますが(中略)

 自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。

 その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過せたら、物事の判断などは人にあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持主などにとっては、はなはだもって荷厄介なしろ物だといえましょう」(『日本の思想』)。

 私が研修を通して接している層は、大企業の従業員や公務員であり、はっきり言えば、いろいろな意味で“守られた層”の人たちです。

 守られているがゆえに、その分、安心して十全に自己を開き、仕事を開いて、日本をぐいぐいとけん引していってほしいと願いたいところです。フロムの表現を借りれば、「人間の独自性と個性にもとづいて積極的に」自由を生かしてほしい。しかし現実は、「自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求める」傾向が強まっています。

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