行方不明者はいまだ2903人、海岸で遺骨を探す人の思いは東日本大震災ルポ・被災地を歩く(2/3 ページ)

» 2012年08月10日 08時00分 公開
[渋井哲也,Business Media 誠]

朝顔を育てる被災者

 遺族の話を聞いた翌日、私は大川小学校へ向かった。小学校では、校舎に向かってひまわりが咲いていた。NPOの企画で植えられ、在校生や遺族が中心となって手入れしている。

校舎付近にはひまわりが植えられている

 山側の花壇で、植物の手入れをしている武山安吉さん(57)と出会った。武山さんが手入れをしていたのはひまわりではない。朝顔の花壇だ。

 「この花壇は、大川小学校に孫が通っていた祖父母が中心になって整備しているんです。そこで、ひまわり以外のもので……という話になったのです。なぜ朝顔だったのか? これから夏に向かっていいかな、ということです」

 武山さんには孫がいるわけではないが、毎日のように来ている。武山さんの家があったのは、学校のすぐ近く。北上川と大川小の間に富士川があるのだが、その土手に20メートルほどの幅にわたって家があったという。広いと私は思ったのだが、地元では狭い方だという。武山さんは仮設住宅に住んでいるが、震災前の住居の広さからすると、使い勝手は良くない。

 武山さんは震災当時、石巻市の中心部にいた。そのために、津波に飲み込まれることはなかった。しかし、両親は家にいたために、津波で流されて亡くなった。当初は遺体が発見されなかったため、行方不明となっていた。

 地震があった時、大川小学校のすぐ北の釜谷地区の人たちは、校庭や学校より南にある釜谷交流会館に集まっていた。武山さんの両親は会館に避難したが、津波の高さは会館をはるかに超えてしまった。

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