メジャー飛び級で日本野球界への退路を断たれた男の天国と地獄――田澤純一臼北信行のスポーツ裏ネタ通信(2/3 ページ)

» 2013年10月31日 08時00分 公開
[臼北信行,Business Media 誠]

帰国しても2年間野球ができない「田澤ルール」

田澤純一

 日本でプロ入りせずに飛び級でメジャー球団と契約を交わした田澤としては万々歳の入団であったが、これに激怒したのが日本プロ野球界。田澤のようにドラフトを無視してメジャーリーグへ移籍する有力なアマチュア選手が今後も続出すれば、日本プロ野球の空洞化につながり、ひいては崩壊する危険性が出てくるとして制限を設けたのだ。

 ドラフトでの指名を拒否して海外のプロ球団と契約を結んだ選手は当該球団を退団した後も大卒・社会人ならば2年間、高卒は3年間、NPB(日本野球機構)の所属球団と契約できない――。

 この「田澤ルール」と呼ばれる規定を設けられたことによって田澤は将来的に日本のプロ球団への入団を希望しても2年間、浪人生活を強いられなければ契約できないようになってしまったのである。プロ選手にとって「2年間、何もしない」というのは言うまでもなく死活問題だ。

 これで田澤には事実上、完全に逃げ道がなくなってしまった。メジャーリーグは群雄割拠の世界。強い者だけが生き残り、弱い者はさっさと淘汰(とうた)される。レッドソックスをクビになって「やっぱり日本のプロ野球がいい」と言い出しても、日本にはもう行く場所がどこにもない。「いきなりメジャー」と喜んでいたが、本当に大丈夫なのだろうか……。喜々としていたはずの田澤は一転して不安がいっぱいになっていったという。

 「実を言えば田澤は最初からメジャー志望ではなかった。根っからのノンビリ屋でガツガツ練習をするタイプではなく、石にかじりついてもというハングリー精神もない。でも、おだて上げながら持ち上げてやると不思議なほどにグングン伸びていく。

 そういう性格の持ち主だからメジャー行きも周囲からあおられて段々とソノ気になっていったというのが正直なところ。周りは『メジャーでやれる』と言ってくれていてレッドソックスとのメジャー契約もつかんだし、この先も何とかなるだろうと……。当初は、そう気軽に考えているフシがあった。

 ところが日本のプロ野球界から総スカンを食らい、嫌がらせとも言えるルールまで作られて、ようやく自分が置かれた立場に気付くことになったのです。当時、本人は周りに『これは大変なことになってしまった。もう死ぬ気でやらなきゃいけない』と悲壮の決意を漏らしていました。こういうふうに追い詰められたときにも『ヤバい』と思って、やっとヤル気が出てくる男なんですよ」(新日石関係者)

初先発初勝利を飾るも、1年で右ひじにメスを入れることに

 日本プロ野球界から嫌われてしまったスロースターターは、とにかく必死になった。しかし、現実はそう甘くなかった。

 2009年8月に新人ながら開幕4カ月でメジャー昇格。同月11日のタイガース戦でメジャー初先発初勝利を挙げて衝撃デビューを飾ったが、翌年のシーズンから奈落に落とされた。開幕メジャー入りを目指したものの、春季トレーニング中に右ひじの靭帯(じんたい)損傷が判明。トミー・ジョン手術を受け、約1年間の長期離脱を強いられることになったのだ。

 田澤に「未来のエース」として期待をかけ、手塩にかけながらジックリ育てていた球団側はまさかのパンクに失望を隠せなかった。試合での登板時はもちろん、ブルペンでの球数まで徹底的に管理し、過保護なほど大事に育成しながらもわずか1年で壊れてしまったのだから無理もない。

 「レッドソックスのチームドクターがあらためて田澤の右ひじをチェックしてみたところ『入団時から傷があった』ということが分かった。つまり実は社会人時代から爆弾を抱えていたということが分かったのです。もともと担ぎ投げのようなフォームでひじに柔軟性がない。日本では、ひじへの負担が大きいフォークを多投していたから、いつ壊れても不思議ではなかった。田澤がフタを開けてみて『いわく付きの選手』だったことで編成担当者をはじめ球団関係者たちは真っ青になったそうです」(メジャー関係者)

 しかし「真っ青になった」のは、誰よりも田澤本人であった。「10年に1人の逸材」などと持ち上げていたはずの地元メディアからは手のひらを返したように「タザワはジャパニーズ・ジャロピー(日本のポンコツ車)」と酷評され始めた。こうしたバッシングに傷心しながら、リハビリのためボストンを離れてフロリダ州フォートマイヤーズのマイナー施設へ。だが、ここでも彼に試練が待っていた。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.