朝日やNHKが選ばれない時代に、私たちが注意しなければいけないこと:新連載・烏賀陽弘道の時事日想(3/4 ページ)
インターネットが勃興し、新聞やテレビといった旧型マスメディアが衰退しつつあると言われている。結果、何が変わったのか。筆者の烏賀陽氏は「ニュース・センターが消滅した」という。その意味は……。
教師がいなくなった教室
私自身が、こうした現象の影響をまともにかぶっている。福島第一原発事故は「原子炉がメルトダウンして周辺住民が被ばくした」という人類史上3回しか起きていない(他の2回はスリーマイル島、チェルノブイリ原発事故)大事件だが、わずか3年あまりで日本社会の関心は急激に低下している。私のようにフクシマの取材をずっと続けている人間にはキツい。連載は打ち切られ、本は売れず、出版社からはボツの嵐である。つまり、原発事故という歴史的大事件ですら「社会全体が関心を持ち、論じる議題」ではなくなってしまったのだ。
「ニュース・センター」が失われると同時に「何か一つの事件に社会全体が関心を持つ」という現象も消えてしまった。例えば、ベトナム戦争や日米安保条約改定、大学紛争など、旧メディア時代に社会全体の関心と議論が沸騰した事件を思い起こせば、彼我の落差に愕然(がくぜん)とせざるを得ない。
こうして「多数が関心を持つ」「少数の」「大きな話題」はバラバラに解体され、「少数が関心を持つ」「無数の」「小さな話題」が登場した。こうした有り様は「教師がいなくなった教室」に似ている。教師が去り、生徒はめいめい自分の関心に従って自習せよと命じられる。確かに、教師が一方的に「授業」という情報を押し付けるよりは、自由だ。しかし個人の関心はそれぞれ違う。ある生徒はマンガを読み始め、ある生徒は仲間と教室の外へ遊びに行ってしまう。マジメに自習する生徒は少数だろう。そこでは「授業」という「集合的情報体験」は霧散する。出現するのはてんでバラバラの無秩序、カオスである。
「パーソナライズされた関心集団」の内部では、人々は自分と似た思考や嗜好の人ばかりと交流し、異なる意見の持ち主とは接したがらない。結果、集団は細分化し、内部の意見はますます均質化していく。ハーバード大学ロースクールで憲法や行政法を教えるキャス・サンスタイン教授は2006年の著書『Infotopia』で「インターネット上の集団は、より同質の人々との交流を好む。その結果、ネット集団は意見が均質化し、急進化し、過激になっていく」と指摘している。
この指摘はすでに現実になっている。インターネット時代になって、人種差別や排外主義を叫び街頭を練り歩く「在日特権を許さない市民の会」が登場したのはその一現象にすぎない(関連記事)。目を世界に転じれば、2014年1月にシリア・イラクにまたがる地域で独立を宣言した「イスラーム国」(ISIS)がある(関連記事)。欧米人を誘拐して斬首し、捕虜や占領民を奴隷にする。残虐な暴力支配を実践するISISが、一方ではSNSで外国人志願兵を募り、YouTubeで斬首処刑を公開しているのはよく知られた話だ。
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