フクシマの被災者たちは忘れられつつある――社会の「忘却」は“残酷”:烏賀陽弘道の時事日想(3/7 ページ)
東日本大震災から4年が経ったが、避難生活を続ける人は、福島県だけでまだ約12万2000人(2014年末)もいる。避難生活を続ける人たちはどうしているのだろうか。筆者の烏賀陽氏は、ある家族の「一時帰宅」に同行した。
主のいない家は荒れ始めていた
千賀子さんは介護福祉士である。主婦だったころボランティアとして老人介護の仕事に携わり、59歳のときにはケアマネージャーの資格を取るまでになった。
2011年3月11日、地震が襲ってきたときも、約10キロ北の浪江町の老人福祉施設で働いていた。偶然帰省していた息子と清士さんが自動車で迎えに来たが、入所している120人のお年寄りを放って逃げるわけにいかない。それ以上に、入所者の避難を済ませなければならない。4日間、職場を離れることができなかった。清士さんと息子は施設に止めたクルマの中で寝泊まりした。
翌日12日に朝8時から夜8時までかかって入所者を隣の南相馬市の病院に運んだ。やっと落ち着いたと思いきや、原発の状況はさらに悪化。また移送。そしてまた……と4日間不眠不休、食べ物や水の備蓄もないなか必死で入所者を運んで脱出した。一体どうやって持ちこたえたのかよく分からない。それくらい必死だったのだ。
そして3月15日、避難先の南相馬市も「屋内退避」になった。ようやく職場から離れた。救援にきた自衛隊員は「富岡町は解散した」という。町役場ごと脱出したのだ(川内村→郡山市)。住む街が消えてしまった。戻る場所がない。仕方なく、埼玉までクルマを運転し、長男の妻の実家に身を寄せた。
千賀子さんは宮城県石巻市の出身だ。幸い実家は津波被害を受けなかった。夫婦で4月から9月まで石巻に身を寄せ、小学校体育館の避難所でボランティアとして働いた。
富岡町は、町全体が福島第一原発から10キロ圏内にすっぽり入ってしまった。町民1万5000人が強制的に避難することになった。しかし、4年以上家に帰れないとは誰も思わなかった。エプロンをつけたまま、財布と携帯電話だけ持って出てきたという女性も多かった。
西原さん夫妻について家の中を歩いた。
4年間主のいない家は荒れ始めていた。寝室の天井は、地震でずれた屋根瓦から雨水が漏れ、天井板が剥がれ落ちていた。窓の障子紙は日焼けしてあちこち破れ始めている。畳や床に、黒いネズミのフンが落ちている。
私は千賀子さんと清士さんが家を片付ける様子を写真に撮った。千賀子さんは丁寧に説明してくれる。
家計簿メモがあった。
「ねえ、平成9年(1997年)に甥っ子に買ってやったランドセル、1万3000円だって。ガソリンが1リットル98円だったのね」
食器棚を開ける。
「このお皿は私が自分で焼いたの。ほら。裏に銘が刻印してあるでしょ?」
台所の床下収納を開けると、自家製薬用酒の瓶が並んでいた。梅酒。梨酒。キンモクセイ酒。
それ、飲めるのか? とのぞきこんだ清士さんが聞く。
「だめだめ。密閉してあっても口には入れられない」
そう言ってまた収納のフタを閉じた。
かつてパンやお菓子を焼いたというオーブンは4年を経てサビと埃、ネズミのフンで、道端に放置された粗大ゴミのように見えた。
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