スズキが“世界自動車戦争”の鍵を握る理由:池田直渡「週刊モータージャーナル」(4/6 ページ)
他社に先駆けてインド市場に進出したスズキは、今や世界中の自動車メーカーから羨望の眼差しを浴びている。同社の成功の裏側にあったものとは……?
残り物には福がある
1991年の経済改革以来、インドは経済的に比較的オープンで、中国のように政府の意向で、民間企業の命運が左右される可能性は高くない。もちろん新興国によくあるように下級官吏の賄賂要求などの問題はあるが、それは新興国ではままあることで、共産党の腹積もりで特定国の民間企業が焼き討ちになる中国とはリスクのレベルが違う。
加えて労働単価も土地も安く、輸出拠点として見ても、アジアと欧州両極へアクセスできる上、次々世代の期待が高まるアフリカにもリーチできるポテンシャルがある。
インドマーケットは長らく世界の自動車メーカーの空白地帯であった。戦前にGMやフォードがノックダウン工場を立ち上げたが、1950年代にはこれらは撤退。以後、自動車の輸入を認めないという強い保護主義政策の中でインドの国産車のみが販売されてきた。
競争の発生しない産業に発展はない。旧東ドイツが、1958年にデビューした「トラバント」を1990年代まで生産し続けたように、インドでは1946年に旧宗主国の英国でデビューした「モーリスオックスフォード」を、インドの自動車メーカー、ヒンダスタンがノックダウンして「アンバサダー」として販売していた。これが信じがたいことに2014年まで続いていたのである。ちなみに1946年の日本では、ホンダの創業者である本田宗一郎氏が自転車に発電機のエンジンを積んだ「バタバタ」を作っていたころだ。
インド進出に関する鈴木修会長のインタビュー記事はあちこちにあるが、1982年にスズキがインドに進出した際、それがあたかも将来を見据えた戦略的進出のように語られることを鈴木会長は強く否定している。
「俺だって大手みたいに先進国に進出したかった。だけど軽自動車を作って欲しいなんて先進国はどこにもなかった。仕方がないから、米国出張の直前に急にアポを入れてきたインド政府の高官と会ってみた。行くところがないからインドに行っただけだ」
インド側はインド側で当時欧州メーカーを中心に技術提携のアプローチをしており、鈴木会長との会見はことのついでのようなものだった。ところが、まだマーケットとしての未来が全く見えない1980年代のインドで自動車を作ってみようというメーカーはどこにもなかったのである。両者にとってこの「犬も歩けば」的、あるいは「残り物には福がある」的な出会いが後に、インドのモータリゼーション開花と、世界もうらやむスズキのインド市場の支配につながるのだから面白い。
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