―― 建築ごとに8〜9枚の写真が一列になって展示されていて、写真の裏側が鏡になっていますね。それによりチャーリーさんがみた風景がひと繋がりに見えると同時に、隣り合った鏡に今みている建築の写真が写り込むことで、現実でもありながら、夢の中を歩いているような、そんな不思議な印象をもちました
展示を抽象的にしたかったというのはありますね。チャーリーはあまり構えずに直感的に写真を撮る人なので、その感じも展示に出したいと思いました。この空間で会場構成をさせていただくのは今回で3回目なのですが、一面に大きく窓があって、それによりこの空間独特の光の入り方とか、光の具合が時間によって変化していく感じが分かってきたので、このギャラリーの空間自体の面白さもみていただければと思いました。
―― 重松さんのメタボリズム観をお聞かせください
メタボリズムはよくユートピア的な未来都市思想といわれますが、戦後の高度経済成長期における社会との関係において、国や政治との関わりを真剣に考えていた建築運動でした。ですので先ほど僕はメタボリズムがもつユートピア的な思想に憧れがあると言いましたが、メタボリズムはユートピアを純粋に目指したわけではないと思っています。
今ものすごい勢いで経済発展をしている中国をみると分かるのですが、中国ではおよそ1年間で現在シカゴにあるのとの同じ数だけの超高層ビルが建てられています。シカゴには約1500の超高層ビルがありますが、中国の状況はとても特殊だと思います。
日本も高度経済成長期に、同じ問題に直面していました。日本の場合は経済成長とともに人口が増大し、都市人口も急激に増えましたが、人間が暮らすための土地がそもそも少ないという問題や、これは今の中国と同じなのですが、経済発展とともに環境が著しく悪くなるという問題に直面していました。ではそれでどうするかといったときに、海上都市や、空中都市を考えたのだと思います。
建築物の造形だけをみればアバンギャルドといわれたりもしますが、それは実は目の前の問題に真摯に向き合った結果生まれたアイデアでした。ですので、メタボリズムが単にユートピア思想ではなかったということは、しっかりおさえておきたいと思います。
―― その成長の過程で、都市に大きなものを作っていくなかで、海や空に都市を構想した背景についてもう少し詳しくお話いただけますか
実はそれは日本の高度経済成長の前から始まっていて、ご存じのように帝国主義が支配的であった戦前には、日本も満州やアジアの国々に進攻して新しい街をつくろうと計画していた時代がありました。平地も少なく狭い日本を飛び出して、広大な土地にまったく新しい都市を形成しようと計画をしたわけです。そこにはメタボリズム以上に本当のユートピア思想があったと思います。
戦争に負けてそれができなくなり、焼け野原になった狭い日本の国土を見たときに、新しい都市を作る際、自然と空や海など自由度のある舞台を求めていったと思うのです。
また、建築家としては今も昔も最終的に大きなことを成したいという思いがどうしてもあります。昔から大きさは権力の象徴でもありますので、そこは逆に現在の日本の建築家がおかれている状況に対する問題意識を感じるところでもあります。
現在、多くの建築家たちは比較的小さな仕事に意識を集中せざるを得ません。さらに昨今、建築家が国土計画や都市計画など、大きなビジョンを描くことが罪深くいわれることがあります。ですが、経済成長に後押しされた開発という名目があるときだけ、建築家も政治家も躍起になってグランドビジョンを示すわけですが、そういったグランドビジョンというものが、景気が良い時にしか生まれてこないというのは僕はおかしいと思っています。僕が生まれた1973年というのは日本の経済成長率が緩やかに下がり始めた年です。つまり僕は不景気や縮小社会の申し子のようなものなので、そこに価値や想像力の可能性を見いだすしかありませんでした。
実は経済が衰退していくときや、縮退していく時代、そしてわれわれが今直面している3.11以後にこそ、グランドビジョンを描く必要性があると思っています。
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