連載
» 2017年06月27日 08時02分 公開

スピン経済の歩き方:日本人が「通勤地獄」から抜け出せない、歴史的な背景 (2/5)

[窪田順生,ITmedia]

昔の「通勤ラッシュ」はひどかった

通勤ラッシュは昔のほうがひどかった

 「痛勤」なんてやゆされて、世界的に見てもひどいと言われる日本の「通勤ラッシュ」だが、実は昔はもっとひどかった。

 戦後間もない頃には、母親と一緒に乗り込んだ赤ちゃんが圧死した。急ブレーキで車内が将棋倒しになって内臓破裂で亡くなった人もいた。比喩ではなく本当の意味で「通勤地獄」だった。

 どれくらい地獄だったのかというのは、終戦翌年の夏を控えて、都交通局や国鉄が「交通地獄」を回避するため、「二部制の時差通勤 週一度は自宅執務」(朝日新聞 1946年6月7日)と呼びかけていることからもうかがえよう。もちろん、このアイデアが社会に浸透することはなかった。

 その後、1961年には「時差通勤通学対策」が東京で導入。1964年になると、佐藤栄作首相が、新宿駅で満員電車に入りきれない乗客を押し込むバイト職員「シリ押し」(現在のプッシャーマン)を視察して絶句。このように憤ったという。

 「だからワシがいつも言っているように社会総合計画がないんだよ」(朝日新聞 1964年11月26日)

 こうして「通勤地獄」は国を挙げて解決すべき「社会課題」となり、翌65年には国鉄労働科学研究所が「ラッシュと疲労度」という調査を実施。満員電車に乗ると体は動かないのに、脈拍が急上昇するなんてショッキングな結果とともに、とにかく長生きをしたければ時差出勤をせよ、と触れ回ったのである。

 しかし、その効果はほとんどなかった。というよりも、事態がさらに悪化していった。

 60年代後半から70年代にかけて、国鉄をはじめ私鉄でもストライキが多発するのだが、交通機関が動かないなかでも、「男は黙って定時出勤」(朝日新聞 1971年5月18日)なんて感じで、あの手この手で始業時間までに席に着いているのが、「サラリーマンの鏡」みたいな風潮が生まれてしまったのである。

 そのなかでも特に高い出勤率を誇ったのが、いわゆる大企業。そしてそこの幹部社員たちである。当時の『朝日新聞』ではトヨタ、ソニーなど大企業の幹部社員を一覧にした「それでも行く管理職」というコーナーで、「出社方法」や「欠勤者の扱い」を紹介している。

 このように「鉄道ストにも屈しないで定時出勤をするサラリーマン」が注目を集め、その愚直ともいうべき滅私奉公の姿が大きく報じられたことが、大地震がきても台風がきても、会社を目指す日本のサラリーマン像のロールモデルになったというのは容易に想像できよう。

Copyright© 2017 ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

注目のテーマ

マーケット解説

- PR -

ITmedia 総力特集