急成長中の日本ワイン 礎を築いた先駆者たちの挑戦:日本ワイン 140年の真価(2/5 ページ)
日本で本格的なワイン造りが始まってから140年。いまや急成長を続ける「日本ワイン」はいかにして生まれ、発展してきたのだろうか。先人たちの苦闘と挑戦の歴史を追った。
ワインは明治政府の肝いり事業
日本で最初にワインが飲まれたのはいつだろうか。既に縄文時代に飲まれていたという説や、安土桃山時代にポルトガルの宣教師が持ち込んだなど諸説あり、断定は難しいという。
ただ、ワイン造りが本格的に始まったのは明治時代になってからだ。明治政府は日本を近代国家にするため、欧米諸国からさまざまな制度や文化、産業などを学ぼうと使節団を派遣した。その一員として同行したのが大久保利通氏である。
ヨーロッパで触れたワイン文化に感銘を受けた大久保氏は、日本の殖産興業の発展に向けてブドウ栽培とワイン醸造を推進する。このビジョンに共鳴し、特段力を入れたエリアが山梨だった。山梨では江戸時代からぶどう栽培が盛んで、ワイン産業化には並々ならぬ思い入れだった。
地元行政の主導の下、日本で初めて産業としてのワイン醸造が行われたが、製造技術の低さなどで失敗を繰り返し、わずか数年でとん挫する。
その後、勝沼エリアの有志が集まり1877年、初の民間ワイン会社である大日本山梨葡萄酒会社が設立された。この会社がワインメーカー大手のメルシャンの源流の1つである。
大日本山梨葡萄酒会社は設立後すぐ、ワイン造りにかかわる知識や技術を身に付けるべく、高野正誠氏と土屋龍憲氏という2人の青年をフランスに派遣した。彼らが帰国後、甲州種のブドウを使って大規模なワイン造りが始まった。しかしながら、当時の日本にはワインを飲む習慣がないため販売に苦しんだほか、苗が病害虫に侵されるなどして事業が立ち行かなくなり、86年に大日本山梨葡萄酒会社は解散した。
だが、そこで日本ワインの火は消えなかった。土屋氏は同僚だった宮崎光太郎氏とともに解散した会社の醸造機材を譲り受けて甲斐産葡萄酒醸造所を立ち上げたのだ。併せて、東京・日本橋にワイン販売専門店の「甲斐産商店」を開き、山梨で造ったワインを売り出したのである。その後、土屋氏とは袂を分かったが、宮崎氏は甲斐産商店の看板を守り続けていく。
宮崎氏は勝沼の私邸内に醸造所を建ててワイン造りを始める。ところが、そのころ消費者に人気があったのは人工甘味ブドウ酒で、宮崎氏が造る生ブドウ酒は厳しい戦いを強いられるのが目に見えていた。欧米のような本格的なワインを目指した宮崎氏にとって苦渋の選択だったが、事業を継続させるべく甘味ブドウ酒の製造に踏み切ったのである。結果、「ヱビ葡萄酒」などの成功によって甲斐産商店は大きくビジネスを伸ばしていった。なお、時を同じくして壽屋(現サントリー)が1907年に発売、大ヒットした甘味ブドウ酒が「赤玉ポートワイン」(73年に赤玉スイートワインと改称)である。
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