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» 2008年09月04日 12時00分 UPDATE

何かがおかしいIT化の進め方(38):その考え、本当にあなた自身のものですか? (1/3)

みんなで同じことをやると、それが状況にかなっていれば成果を発揮するが、一歩間違えれば全滅になりかねない。自ら考えるより右にならえ──日本が繰り返してきた行動パターンのツケが、いまあらゆる分野に影を落としつつある。

[公江義隆,@IT]

真の問題は視野の外

 いま、いろいろな分野で行き詰まりの感が漂い、世界全体が大きな変曲点に差し掛かっているように思う。 先日は「日本の食糧需給率が40%を切った」と、各メディアがいっせいに取り上げた。しかし、日本の食糧需給率の低下はいまに始まったことではない。高度成長期以来、下がり放しであった。詳細な数値は知らなくても誰もが感じていた問題だろうし、農漁村の疲弊も知っていたはずだ。

 BRICS経済の拡大による需給関係の逼迫(ひっぱく)、過剰流動マネーの投機による資源価格の高騰、異常気象による農水資源の枯渇、過度に依存してきた中国製品の安全性問題、さらには、お金を出せば手に入ると思っていたものが手に入らなくなるというパラダイム・シフトなどなど、危機意識の背景についての説明はさまざまなされる。

 しかし、真の問題は「これらの問題がなかったとしても、現在の自給率でいいのか」「そもそも自給率はどの程度であるべきなのか」「なぜ自給率は下がり続けたか(下げる政策が採られ続けたか)」である。

 1つ突っ込んで考えると、例えばこんな問題も想起される。幼いときからパンの学校給食で刷り込まれた小麦嗜好の食感は、コメ離れを助長し、米国政府とシカゴの穀物商社を喜ばせ続けた。本来、日本の政策問題であった給食内容について深く考えることを避け、国はパン食は「嗜好の変化」、コメ余りは「需給問題」ととらえることにして、コメの減反政策と結びつけて始末し、国民はパンの給食に疑問を持たなかった。

日本だけがなぜ?

 世界各国の食料自給率のデータを見ると愕然とする。1970年から2002年にかけて、日本が60%から40%へと自給率を下げ続ける中で、フランスは104%から130%、米国112%から119%、英国は41%から74%、ドイツは68%から91%と、経済先進国は軒並み自給率を上げているのである。

 日本と同様、農業については世界中の多くの国々が、補助や補償制度を整備している。しかし、日本ではそうした制度を農業の生産性向上や競争力強化に結び付くものとはしなかった。それどころか、「仕事を減らし、生産量を落とせばご褒美(減反補助金)がもらえる」という、弱体化をますます助長し、将来の希望が描けない産業へと追い込むようなものにしてしまった。こんな制度が本来あり得るものだろうか。 しかし、これに正面切って異を唱え騒ぎを起こそうとする人はいなかった。

 こうした海外各国との違いはどこから来るのであろう。突き詰めて考えてゆくと、国際化・グローバル化してゆく世界の中で、われわれ日本人の考え方や行動様式に何か弱点があるような気がしてくる。

関連資料
「我が国と諸外国の自給率」((財)食生活情報サービスセンター)

考えることの丸投げ?

 日本人の多くは、自ら考える前に答えを知りたがる。例えば「選挙目当ての政治家の行動」「誤りを認めない役人の体質」、あるいは「戦略的発想の欠如」「日本の常識は世界の非常識」などなど、日ごろよく耳にする言葉を聞かされると何となく分かったような気になってしまい、その実態を具体的に考えることもせず、思考停止に陥る場合が少なくない。われわれ日本人は心理的な影響を受けやすい国民のようだ。

 私の知る多くの外国人たちは、「なぜ」「どうして」と、しつこく突っ込んでくる。例えば「法律や制度がそうなっている」といわれると、日本人はそこで諦めてしまうが、彼らは「それらが不都合なら変えればよい」という。

 会社の中でも、IT化の問題でも、「無意識のうちに、自分たちが勝手に作り上げてしまった常識や条件」の自縄自縛に陥っているということはないだろうか。何かをやろうとした際に、「しかし、うちの会社では……」といった発言が多ければ危険信号だ。

「どうする?」ではなく、「どうなる?」と考える日本人

 日本人の集団の中では、「自分の責任で考え、決める」という能動的な発想や行動をする人を、“波風を立てる人””出しゃばり”として何となく敬遠したり、足をひっぱったりしがちである。

 従って、賢い人の多くは「自分で考え、決める」ことや、「先をみて手を打つ」ことを避けようとする。「そうするしか仕方がない」「これしか方法がない」といった状態にならないと、問題の存在を認めようとしないし行動も起こさない。そうすれば、周囲の納得を得て民主的にことを進めた形になる。結果がどうあれ、責任を問われることも他人と摩擦を生じることも少ない。

 そうした消極的な姿勢の結果、問題に対する対処は手遅れになりがちなのだが、それによる“機会損失”や“不作為”に対して、周囲は大変寛大である。歴史的にも、日本における大きな変化は、内からのエネルギーによるものではなく、外圧による場合がほとんどであった。

 日本人には問題を目の前にして、「どうする」ではなく「どうなる」という発想が多い。前者の主体は「私」であるが、後者の主体は「自分以外の何か」である。途上国支援の問題で、相手国の人に投げかける質問に「日本に何を期待するか」が何と多いことだろう。

考えを示すことなく、常に相手の顔色をうかがいがちな日本人

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 海外子会社の管理に苦労するグローバル企業の話をよく聞く。その苦労の基が、本社が自らの考えや方針を示す前に、相手の要望や意見を聞こうとするところにあると感じることがよくある。

 現地の状況や問題点を事前に調査する必要はあっても、方針の設定は本社の役割である。要望や意見を聞くのはその後だ。少なくとも相手はそう思っている。本社による方針提示や問題の絞り込みができていない状況下で、発想方法や文化、環境も立場も異なる人たちが困った末に出してくる意見は、問題対象もレベルもまちまちで、評価のしようがないのが普通だ。扱いを持て余し、出てきた要望や意見に応じられなかった本社の信頼は低下するばかりである。

 日本式の発想で、相手の顔を立てながらまとめようとしてもまとめようがない。われわれ日本人の発想方法や行動様式は、ほかの国の人たちに比べて大変受動的なのだ。 情報システムのグローバル管理も、技術の問題である前に、文化の問題である。

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