その考え、本当にあなた自身のものですか?何かがおかしいIT化の進め方(38)(2/3 ページ)

» 2008年09月04日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]

青信号でも1人では渡れない?

 高度経済成長期の昭和30年代、「金の卵」と呼ばれた農漁村の中学卒業生らは、集団就職列車で大挙して上野駅に到着した。映画『三丁目の夕日』の時代である。彼らの多くは第2次産業――工業分野に従事し、日本の経済発展に大いに貢献する。

 やがて彼らは都市に定着し、フォークソング「木綿のハンカチーフ」や「神田川」の時代になる。大都市は急速に肥大化し、働き盛りの世代が中心であった農漁村は次を担う世代を失い、次第に老齢化し、経済的にも社会的にも疲弊していった。

 同じような現象はほかにもある。昭和40年代、都市人口の増加を受けて、大都市周辺でニュータウン計画が爆発的に進んだ。都市の働き盛りの世代がいっせいに移り住み、核家族化の流れが加速した。30年間、活況を呈したニュータウンはいま、老朽化した建物と老人ばかりの寂れた街に変貌した。1970〜1980年代には、「国際化」の名の下に展開された、日本の集中豪雨的な輸出が外交・国際政治問題をもたらした。

みんなでなら赤信号でも渡れそうな勢いなのに、1人だと青信号でも渡るのをためらってしまう

 以前、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉が流行ったが、これは裏返せば「青信号、それでも1人じゃ渡れない」ということでもある。

 隣が種を撒けば自分も種を撒く、結果的に村中が同じことをいっせいにやる──日本人のこうした特性を表したことわざもある。農耕民族の特性といえば納得する人が多いが、みんなが同じ方向にいっせいに動くから、やることが周りの条件にかなっている場合には大きな力を発揮するものの、状況が変われば今度は全滅である。

 自ら考えるより、常に右にならえ──日本が過去に繰り返してきた行動パターンのツケが、いま、いっせいに回ってきたように思う。中国をはじめとする外国に対して、多くの分野で過度に依存し、IT分野でも過度の外部依存が進められた結果として“質”が空洞化したというツケは、想像以上に大きい。

かつて、「日本列島改造論」という壮大な構想があった

 さて、ここで1つの文献を紹介したい。1972年に出版された当時、“コンピュータ付きブルトーザー”との異名を持った、田中角栄によるベストセラー図書『日本列島改造論』の前書きからの抜粋である。

田中角栄著 『日本列島改造論』(日刊工業新聞社/1972年発刊)より

 農村から都市へ、高い所得と便利な暮らしを求める人々の流れは、今日の近代文明を築きあげる原動力となってきた。明治維新から100年余りの間、わが国は工業化と都市化に高まりに比例して力強く発展した。ところが、昭和30年代にはじまった日本経済の高度成長によって東京、大阪など太平洋ベルト地帯へ産業・人口が過度集中し、わが国は世界に類を見ない高密度社会を形成するに至った。


 巨大都市は過密のルツボで病み、あえぎ、いらだっている反面、農村は若者が減って高齢化し、成長のエネルギーを失おうとしている。都市人口の急増は、ウサギを追う山もなく、小ブナを釣る川もない大都市の小さなアパートがただひとつの故郷という人を増やした。都市集中のメリットは、いま明らかにデメリットに変わった。


 国民がいま何より求めているのは、過密と過疎の弊害の同時解消であり、美しくすみよい国土で将来に不安なく、豊かに暮らしてゆけることである。……中略……ひらかれた国際経済社会のなかで、日本が平和に生き、国際協調の道を歩き続けられるかどうかは、国内の産業構造と地域構造の積極的な改革に掛かっている。


 当時、抜群のアイデア発想と行動力を有する政治リーダーのもと、各省の官僚たちは燃えた。工業再配置、産業構造転換、農業構造の改善、環境保全と公害防止、福祉と社会資本の充実、住宅生活環境の改善。新しい都市作りについて政策を詰め、法律作成に取り組んだ。

 この施策の内容については『日本列島改造論』に詳しく述べられているが、その中には以下のような内容の記述がある。

  • 「工業再配置と、交通・情報通信による全国的ネットワークの形成(全国を1日行動圏内にする)をテコにして、人、金、モノの流れを巨大都市から地方に逆流させ “地方分散”を推進、過密と過疎の同時解消を図る。
  • 公害のない工場を大都市から地方に移し、教育、医療、文化、娯楽の施設を整え、豊かな生活環境を整備し、地方都市を新しい発展の中核として、高い所得の機会を作る。
  • 農業は高い生産性と所得の確保のため経営規模を大型化し、自給率は80%程度を維持する。
  • 地方も大都市も、ともに人間らしい生活が送れる状態に作り変えられてこそ、人々は自分の住む町や村に誇りを持ち、連帯と協調の地域社会を実現できる。

 こうした構想について、専門家の評価・批判はさまざまである。だがこの後、これほどまでに国の将来ビジョンを描き、そのための施策をシステマティックに検討し、広く世に問うた例を私は知らない。

日本人の行動様式

 しかし、人一倍利権に聡く、抜群の件数の議員立法の実績を誇る政治家にしてなお、事前の詰めと準備が、結果的には甘かった。この「日本列島改造論」が、いまでいうマニュフェストとして広く世間に知らされた結果、ディベロッパーが土地の買い占めに走って地価の急騰を招き、地価上昇や補償を期待する農家は土地を手放そうとしなかった。

 翌1973年には石油ショックによる物価高騰が事態をいっそう不利にし、1974年には田中角栄自身の金脈スキャンダルが発覚、首相を退任するに及んで、この壮大な計画は瓦解した。

 しかし、この計画に前後して制定された建設関係を中心とする多くの法律は、その後の状況変化にとらわれることなく一人歩きし、グリーンピア建設、利用されない港湾整備、道路建設やダム建設など、族議員や官僚、建設業者などの利権拡大のために利用され続けた。

 「地方分散のため」であった交通網や情報通信網の整備は、思惑とは裏腹に、地方の中核都市パッシングと東京一極集中に拍車をかけた。地方に来るはずだった工場は、国際化の波とともに海外に向かった。「時間軸」と「国際化してゆく経済の流れ」という視点は抜け落ちていた。霞ヶ関の机上には日本地図しか存在しなかった。

 “日本列島改造”失敗の原因は、田中元首相の失策だけにあるわけではないだろう。その背景にも、また、その後問題が先送りされた背景にも、自ら考えようとしないわれわれ日本人の発想や行動様式が横たわっていたように思えるのである。

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