「簡単だよ。まず、いきなり売り込まないこと。売り込んだら絶対にダメ」
「なるほど」
「それから、求められるまでは、絶対に商品の説明をしない。そのための小道具なんだよ」
「あの地図が?」
「そう。あれはジンジに頼んで作ってもらったんだけど、近所の人が何やってるかって、本当はものすごく関心があるだろう? その心理につけ込むための道具。別の商品だったら、お客様の声なんかがすごく効果があるんだけど、マイラインではお客様の声もくそもないからね」
「タレントの写真もそうなんでしょ?」。タレントの発音がよすぎて、最初は何を言ってるのか和人にはよく分からなかったほどだ。クオーターにはカタカナ発音を教えないと……。
「そう。知ってる、知ってるってお客さんが言い出したら、もう大丈夫。向こうは説明を聞くモードに入ってる。あとはさりげなく向こうから説明を求めさせるように仕向けるだけなんだ」
「なんか、ずるーい」
「知恵を使うと何でもずるく感じるさ。肝心なのはお客さんの嫌がることは絶対しないこと」
2人の目が違ってきた。自分にもできそうだと思えてきたのだろう。「さあ、次はどっちがやる? 今の成果は、次にやるほうの成績にするよ」。2人同時に勢いよく手をあげた。
じゃんけんで勝ったマザーが次をやることになった。道は聞けたけど、商品説明に入ろうとすると「興味ないわ」の一言で終わってしまった。
「今のは、先方が切り出す前に、お得な話だと言っちゃっただろ? あれがいけない」
「えー。だってお得なら聞きたくないですか?」
「向こうもお得と思っていたらね。でも、営業がお得ですというときは、だまそうとしていると受け取られるんだよ」
「そっか」
「人間同士の信頼関係みたいなものができるまでは、商品の話には行っちゃいけない。それが早くできるかどうかが売れてる営業とそうでないのとわかれ目なんだ」
次は、クオーター。こちらはたどたどしいのが逆によかったのだろう。演技をしなくても迷子に見える。日本語が巧くないので、お客が逆にリードしてくれる。いい流れで成約にこぎつけることができた。
「やったね! クオーター」
マザーが自分のことのように喜んだ。クオーターはまだ自分の成果が信じられないようだった。目をぱちくりさせている。
「口ベタな方が営業に向くというのが、ぼくの持論なんだ。そういう意味では、クオーターは素質があるよ」
その日は3人で夕方までに30軒回って、全部で5軒の成約を勝ち取った。
「あのボールペンの技、すごかったですね」。マザーが和人の助け舟を思い出して言う。一軒だけ40代中頃と思われる男性が出てきたのだが、なかなか話が進まなかったのだ。
「ああ。あれも偶然なんだけどね。平日の昼間に男性が出てくるということは、家でできる仕事ってことだよね。で、物書きじゃないかとあたりをつけたの。今はワープロ使ってると思うけど、あの年齢層だと若い頃はペンで書いてたと思うんだ。ぼくもそうだったから、身分不相応ないいボールペンを持ってる。書きやすさが違うからね。彼も筆記具に興味があると思った」
その男性は、和人がボールペンの話をしだすと急にノリがよくなったのだった。
「探偵みたい」
「あはは。探偵とまではいかないけど、営業に大切なのは人間観察だと思うよ。だから訪問販売だと男性よりも女性の方が向いてると思う。まあ、ぼくでも頑張れば訪問販売はできるけどね。あとは持っているものは何でも使うってことかな」
仲良しチームは、和人の同行のおかげでかなりやる気が出てきたようだ。出る前と目の輝きが違っている。営業にとって大事なのは、運よく大きな契約を取ってくることではなく、小さな成果を積み重ねることというのが和人の持論である――。
筆者の森川“突破口”滋之です。普段はIT関連の書籍や記事の執筆と、IT関係者を元気にするためのセミナーをやっています。
Biz.IDの読者には、管理や部下育成といったことや、営業など専門知識以外のビジネススキルに関することなどに関心を持ち始める年代の方が多いと聞いております。
そういう方々に役に立つ話として、実話をベースにした物語を連載することになりました。元ネタはありますが、あくまでもフィクションであり、実在の団体・人物とは関係ありません。
今回の物語は、ぼくのビジネスパートナーである吉見範一さんから聞いた話を元にしたものです。ある営業所の若い女性が起こした小さな奇跡について書きます。営業経験がなく、日本語が達者じゃないのに法人営業に成功した話が始まります――。
大学では日本中世史を専攻するが、これからはITの時代だと思い1987年大手システムインテグレーターに就職する。16年間で20以上のプロジェクトのリーダー及びマネージャーを歴任。営業企画部門を経て転職し、プロジェクトマネジメントツールのコンサル営業を経験。2005年にコンサルタントとして独立。2008年に株式会社ITブレークスルーを設立し、IT関係者を元気にするためのセミナーの自主開催など、IT人材の育成に取り組んでいる。
2008年3月に技術評論社から『SEのための価値ある「仕事の設計」学』、7月には翔泳社から『ITの専門知識を素人に教える技』(共著)を上梓。冬には技術評論社から3冊目の書籍を発売する予定。
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