「え? 谷さん、オレらのことバカにしてたの?」。いつの間にか会議室に着いていたらしい。ショージの声がした。
「そりゃあ、普通するだろうよ。お前らバカそうだもん」
「正解だけど、ちょっと腹が立つなあ」。タカシが笑いながら言い返した。
これは人間関係ができている、よくやった。和人は2人を抱きしめたい気持ちだった。
「で、その日は、今の契約内容を教えてくれたら、見積もりを出すというので、その前に秘密保持契約が先だと、雛形を渡したんです。つまり次回会うことを約束してしまったんですね。彼らが帰ってから、してやられたと思いました」。谷は少しうれしそうに、そう言った。
「その次の次ぐらいに見積もりをくれたんだけど、かなり安くなることが分かった。これはいいと部長に話をしたんですけど、業者の言うことを鵜呑みにしちゃいかん、いろんなケースを想定して、資料を持ってこさせろと言うんです。私がもういいだろうと思っても、部長があの場合はどうなんだと根掘り葉掘り聞いてくる。そのたびに電話やメールをするんだけど、1日か2日で資料を作って持ってきてくれる。もう何往復したかな?」
「なーに、15回ぐらいですよ」。ショージが答える。
話が一段落したので、和人に会議室を見渡す余裕ができた。部長の座ると思われる席には、背幅が5センチにもなるチューブファイルが5本並んでいた。いったいいつのまにこんなに資料を作っていたんだ? 和人は驚嘆した。これじゃあ、チェッカーもかかりっきりになるはずだ。
和人は、もはや成約を確信していた。この資料のボリュームを見ただけで、どんなに意地悪な部長でも認めざるを得ないだろう。問題は契約締結のタイミングだけだ。
その部長が入ってきた。最初に大口兄弟の姿を認めて、露骨に嫌悪感のある表情を浮かべた。次に自席に積まれた資料を見て、驚きの表情に変わった。
名刺交換をしてあいさつが済むと、タカシがプレゼンテーションを始めた。けっして上手とはいえないが、気魄(はく)のこもったいいプレゼンだった。一部の質問には和人もフォローしたが、ほとんどは黙って見ていただけだった。大口兄弟は夢中でプレゼンを続けていた。和人の目に浮かんだ涙は見えなかったに違いない。
和人は、帰り際に決裁者を確認した。部長の上は、担当役員だけらしい。これは間に合うかもしれない。
竹田食品を出たのは、8時ちょっと過ぎだった。さすがに空は暗くなっている。金星はさらに明るさを増していた。
大口兄弟が、この前のハンバーグ弁当の借りを返したいという。ファミレスにでも寄るのかと思っていたら、ちょっと洒落たレストランに車を停めた。予約していたらしい。
タカシが言う。「所長は貧乏でホンモノのハンバーグを食べたことがないみたいだから、オレがおごってあげるよ」
しばらく待って出てきたのは、400グラムはあろうかというビッグサイズのサーロインステーキだった。
「仕返しするって言っただろう」。タカシがいたずらっ子の目で言った。
「このバカやろう……」。和人は涙声でようやくそれだけ言った。
しばらくして、和人が口を開いた。
「オレの長い経験から考えても、これは取れそうだ」
大口兄弟はガッツポーズをした。
「ただ、問題は成約するタイミングだな。まだ、部長はお前たちを完全には信じきっていない。もうひと波乱あると思ったほうがいい」
「これ以上、どうしたらいいんすか?」。ショージがきく。
「次に部長が聞いてきそうなのは、切り替え後の話だ。谷さんのために完全に理論武装しろ。まずジンジにその観点で漏れがないか確認して、先に手を打っておけ。今月の残りは、チェッカーもジンジもお前たちの専属だ。ほかの2チームはオレがフォローする。それからほかのアポは、すべて来月に延長しろ」
もうこの案件の成約に賭けるだけだ。和人の決心は揺るがないものとなった。
「なんか燃えるぜ」。タカシとショージは同時にそう言って、顔を見合わせて笑った――。
混迷の時代です。個人ブランドの確立は1つの解決策かもしれません。出版・連載などについて漠然と考えているが、実現までの道筋が分からないという人のために――。
大学では日本中世史を専攻するが、これからはITの時代だと思い1987年大手システムインテグレーターに就職する。16年間で20以上のプロジェクトのリーダー及びマネージャーを歴任。営業企画部門を経て転職し、プロジェクトマネジメントツールのコンサル営業を経験。2005年にコンサルタントとして独立。2008年に株式会社ITブレークスルーを設立し、IT関係者を元気にするためのセミナーの自主開催など、IT人材の育成に取り組んでいる。
2008年3月に技術評論社から『SEのための価値ある「仕事の設計」学』、7月には翔泳社から『ITの専門知識を素人に教える技』(共著)を上梓。冬には技術評論社から3冊目の書籍を発売する予定。
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