最終回 これからもよろしくな大口兄弟の伝説(1/2 ページ)

月末の締め日がやってきた。泣いても笑っても、24時までに入力した数字ですべてが決まる。この3日間、ほとんどのメンバーが終電帰りだった。その日、タカシとジョージの大口兄弟以外は事務所に戻っていたが、2人はまだ帰っていなかった。「どこをほっつき歩いてるんだろう」――。

» 2009年01月07日 08時30分 公開
[森川滋之,ITmedia]

あらすじ

 ビジネス小説「奇跡の無名人たち」第1部の続編「大口兄弟の伝説」――。営業所の存続をかけた営業コンテストを前にして、順調に契約数を増やしていたC市営業所。問題は、大企業しか攻める気のない「大口兄弟」のタカシとショージ。2人はそれぞれ過去の失敗を「リベンジしたい」と胸に秘めていたが、なかなか契約が取れないでいた。そんな折り、営業所のオタクが過労で倒れ、本部の査察で資料作りを担当するチェッカーが精神的に追い込まれ、息子のケガでマザーが会社を休んだ。そんな時、大口兄弟が県内でも有数の大企業、竹田食品のアポイントを取ってきたのである。しかし、契約はなかなか進まない。ついに営業コンテストの締め切りの日になってしまった。


 月末の締め日がやってきた。泣いても笑っても、24時までに入力した数字ですべてが決まる。この3日間、ほとんどのメンバーが終電帰りだった。

 大口兄弟は、ほとんど寝ていない。車の事故だけは気をつけろ、それから風呂に入って、着替えもするんだぞ。和人にはそれぐらいしかかけてやる言葉はなかった。もう腹をくくって、やつらを信じるしかない。

 最終週にきて、イケメンががんばりを見せた。個人宅の契約を電話だけで取りまくったのだ。結局イケメンは1カ月で和人のヨミの倍近く、80回線強を電話だけで取ったのだった。

 マザーとクオーターの仲良しチームもがんばった。450回線弱。4月に同行して手本を見せたときのことを考えるとウソのようだ。ロバさんチームは、和人のヨミ通り500回線強。これだって4月のことを思えば驚異的だ。C市営業所は、現在1032回線で全国6位に着けている。

 この時点で、東京南営業所が相変わらずのトップで1788回線。2位が名古屋を逆転した横浜営業所で1542回線。名古屋は僅差の1489回線。まだ分からないが、少なくともこの3営業所がベスト3だと誰もが思っていることだろう。C市営業所にいる者たちを除いては。

 4月に和人が全員を面談したときには、この営業所がここまでになるとは想像していなかった。もし、大口兄弟が契約できなくても、和人は全員を抱きしめたい気持ちだった。さすがに女性にそれをするのはまずいだろうと思いながらも。

 20時を過ぎたところで、マザーとクオーターの仲良しチームが、21時を過ぎたところでロバさんとオタクのロバさんチームがそれぞれ事務所に帰ってきた。内勤のイケメンもジンジもアネゴもチェッカーも誰も帰宅しようとしない。

 7月下旬の暑い日だっただが、経費節約のために事務所のエアコンは20時に切れる。窓は開けっ放しだ。蚊取り線香のにおいがする。みんなこの劣悪な環境の中でよく耐えている。声を発するものは誰もいない。22時ぐらいまでは車の騒音でうるさかったが、22時半を過ぎると車の通りもまばらになった。

 22時45分ごろ、電話のベルが鳴った。アネゴが大急ぎで取った。全員が注目している。

 「違うわよ」。アネゴが受話器をたたきつけるように切った。「どこかの酔っ払いが上寿司2人前だって」。全員のため息が重なった。

 23時を回った。車は5分に1回ぐらいしか通らなくなった。壁掛けのアナログ時計のカチッカチッという音だけが耳障りだ。

 「どこをほっつき歩いてるんだろう」。イケメンがふと声を漏らした。「きっと、恥ずかしくて帰って来れないのよ」。マザーが冷たく返す。

 バカやろう。胸を張って帰ってこい。和人が胸の内で叫ぶ。みんな良くがんばったじゃないか。ここには負け犬なんか1人もいない。本部のエリート連中は認めてくれないかもしれないが、ここにいる全員がそれを知っている。それで十分だ。このまま営業所が解散させられたとしても、最後の最後までみんながんばったじゃないか。みんな何かを成し遂げられる人間になったんだ。タカシ、ショージ、もういい。早く帰ってこい。全員で健闘をたたえ合おう。いいから早く帰ってこい! みんな待ってるんだから。

 和人の気持ちに応えるかのようにクオーターが立ち上がった。「みんな、よくやりました。すごいです。私は感激しています。これで見放すなら、もう神様なんか信じない」。アネゴが続ける。「みんな、結果がどうなっても大口兄弟が帰ってきたら、拍手で迎えようよ。それは自分への拍手でもあるんだよ」

 23時45分。あと15分で運命が決まる。さすがにみんな暗い表情になっている。あの大口兄弟とはこのまま2度と会えないような気さえしてくる。

 そのときだった。車の急ブレーキの音がした。事故かと思ったが、ぶつかった音はしなかった。続いてエレベータが上がってくる音が響き渡った。

 「きゃっほー」。猿が騒ぐような声がした。大口兄弟だ。走ってくる足音がする。事務所のドアが乱暴に開け放たれた。

 「取れたあ〜、1500回線。やったんだ、オレたち」

 チェッカーが契約本数を入力する端末に走った。契約書を持ったショージがそれに続く。まだ大丈夫、入力できる。チェッカーが目にも止まらぬ速さでキーボードを打つ。登録完了。間に合ったのだ。

 全員が大歓声で、大口兄弟に殺到した。タカシが胴上げされた。続いてショージも。そして和人が胴上げされた。

 「もういい、危ない。やめてえ〜」。和人が女の子のような声を出す。隠していたが高所恐怖症なのだ。本部23階の応接室が嫌だったのは、そのせいでもあった。みんな大笑いした。笑いながら、どの顔も涙でくしゃくしゃだった。あのクールなイケメンまでくしゃくしゃだった。表情があるのかないのか分からないと言われてきたロバさんもチェッカーも同じだった。

 和人がさっきの醜態を返上するかのように厳しい顔でたずねた。「タカシ、なぜ連絡しなかったんだ」

 「それが先方の部長にしつこく質問されて、ずっと受け答えしてたんです。それが夜の10時を回っても続くんで、今から役員の判子は無理だろうし、こりゃもうダメかなと思いました。で、切り上げようと思ったら、部長がよし合格って言って、社印の押してある契約書をくれたんすよ」

 ショージが続ける。「なんだ、決裁通ってるんじゃないかって、ちょっと腹が立ったんだけど、そのあと部長がこれからもよろしくなと右手を差し出してくれて感激しちゃいました。いい気分になったんだけど、時計を見たら11時回ってるじゃないの。間の悪いことに、2人とも携帯の電池が切れちゃってて、こりゃヤバいってんで、車飛ばしてきました」

 アネゴがどこかに電話している。「みんな、友達がやってる店に電話したら、朝までやってくれるって。ほかのお客は帰して、貸切にしてくれるって。祝杯を上げに行こうよ」。和人は、それほど飲めるほうではなかったが、今夜ぐらいは朝まで飲んでもいいと思った。どうせ、終電は終わっている。

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