秋田は、末期がんだった。最後は出身地で死にたいと、神戸の病院に入院していた。浩たちは、30分ほどで病院に到着したが、その間が浩には何時間にも感じられたのだった。
ビジネス小説「奇跡の無名人」シリーズ第3弾「感動のイルカ」は、アクティブトランスポートの代表取締役兼CEOである猪股浩行さんの実話に基づく物語である。
会社をリストラされた主人公の猪狩浩(いかり・ひろし)。独立して引っ越し屋となったが、なかなか上手くいかない。そんな時、コンサルタントの秋田に出会い、支援を受ける。ついには“経営の神様”と呼ばれている宮田和弘の「弘和塾」の講演に呼ばれるまでになった。講演は成功したが、肝心の秋田は来ていなかった。そんな時、浩は秋田の危篤を知ったのだった。
宮田は秋田の入院は知っていたのだが、それを浩に話すことをとめられていたのだと言った。
「あいつにとっては大きなチャンスなんや。それを俺なんかへの心配でつぶしたらあかん」
たった一度、それも半日の時間を共有しただけの人だった。その後も、いつもそばにいてくれている感覚はあったが、これほどまでに自分のことを思っていてくれたとは信じられなかった。
秋田は、末期がんだった。最後は出身地で死にたいと思い、神戸の病院に入院していた。宮田が手配してくれた社用車は渋滞にひっかかることなく、30分ほどで病院に到着したが、浩にはその間が何時間にも感じられた。
病院の車止めに到着すると、浩は飛び降りて走り出した。宮田はそのあとをゆっくりと続いた。
病室をノックすると、すでに家族や関係者でいっぱいだった。奥さんと思しき人が、浩に声をかけてくれた。
「もしかしたら、猪狩さん?」
「はい」
「あなた、猪狩さんが見えたわよ。聞こえる?」
「う……うん」
浩は、秋田の横に通された。
「先生」
「こら、あまり大きい声は耳に障る。大丈夫や、聞こえてるで」
蚊の鳴くような声だったが、秋田はしっかりと話をした。何という精神力だろう。
「先生、すみません。ぼくは何も知りませんで」
「ははは、俺が知らせるなと言うたから。それより、どやった?」
「は、はい。おかげさまで。講演は、たぶん大成功だったと思います」
そこへ遅れて入ってきた宮田が口を開いた。
「秋田先生、すばらしい人を推薦してくれてありがとう。みんな感動してたで。ハンカチでは足らんので、俺からみんなにタオルを配っといたわ」
「そおか。よかったなあ、猪狩君」
「先生、あまりしゃべるとお体に障ります。どうか、もうこの辺で」
浩は、これだけ言うのが精一杯だった。
「自分の寿命ぐらいは分かるわ。最後までしゃべらしてくれ」
いたるところから嗚咽の声が漏れた。
「猪狩君、君んとこのトレードマーク、たしかイルカやったなあ。俺、あの絵柄が好きでなあ」
浩は、差し出された秋田の手を握り返した。
「あれはええ。感動したイルカがうれし泣きしてる絵やったなあ。君の名刺にも印刷してあった。俺はなあ、あの絵を見て、君に会ってみようかなと思ったんや」
浩は、鼻をすすった。涙は拭いてもムダだと思った。
「あれは、どういう気持ちで作ったんや」
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