実名で交流できるFacebook。でも、交流のほんとうの意味を考えてみませんか?
あなたはFacebookをやっていますか? 私は2011年ころから夢中になり、その中で多くの交流をしてきました。しかし1カ月程前にやめました。
なぜやめてしまったのか。その理由は
からです。
とはいえ、Facebookが嫌いかというとそうではありません。むしろ結構好きでした。それでも、私の性格上「何かおかしい」と思ったものを自分の生活に残しておくことができなかったのです。
なぜ「おかしい」と感じたのでしょうか。
人それぞれ見方は十人十色です。にもかかわらずあの場での私は「世間でいうところの“正しいこと”を発言しなければならない」という無言の圧力を感じ、無意識のうちに投稿内容を修正してしまっていました。それだけではなく、例えばニュースについて書く場合、まだそのニュースについてよく知らず、熟慮していない場合は「発言しない」という選択を取ることもありました。
「これは正しいか」「未熟・稚拙な意見になっていないか」――常にこういうことを気にしながらの発言になるのです。もちろん、それが自分を成長させてくれることもありますが、何か違うと感じてしまったのです。
これは、私が社会人になってから覚えるようになった違和感のうちの1つ、「高校野球見なきゃ症候群」と通じるところがあります(勝手に命名)。分かりますか、このニュアンス? 私は母校が女子高なので、もともと高校野球を応援する習慣がありません。でも、社会に出てから出会った人たちは、みんなどこかの高校を応援しているから、仕方なく自分も応援する高校があるフリをして何となく見たり、結果を言い合って無意味にテンションを上げたりする……。本当は高校野球に興味なんてないのにです。
同じように、“みんなの話題”についていこうと必死になって、Facebookのタイムラインを追い続けながら発言しているうちに、「私」はとうとうどこにもいなくなってしまったのです。簡単にいうと、私は自分の心のない、機械的に投稿するだけの「bot」になったのです(笑)。
botとして生きるより、「ぼっち」になることを選んだ結果がFacebookをやめることだったのです。正しかろうが間違っていようが、自分で考えた自分の意見を大切にする。感じたことをそのまま話してみる。趣味にどっぷりハマってみる。好きな事を好きなだけやる。本当に興味のあること以外に時間を割くほど人生は長くありませんからね。孤独上等です!
Facebookの第二の弊害は「人間関係自慢」にあると思いました。これは地味に打撃が強いのです。ここだけの話ですが、同業他社の方々の人間関係が、もう丸見えで(笑)。「見せているんだ」と言われればそれまでですが、変な意味でのガラス張り経営。
私もそこまで開き直ってやればいいのでしょうけど……。
正直に言えば、それをやろうとした時もありました。でも、そのために「会う価値のある人」と「会う価値のない人」を分けている自分がいることに気づいたのです。それに気づいたとき、とても怖く感じました。何やらしてはいけないことをしてしまっているような気がして。何のための人生なんだろう? 人に誇れる歴史を残すため? 今この瞬間の自分に満足するため?
そもそも人と人は魂レベルでは平等というのが私の信念です。どうすればその信念を貫いた人生を送れるかを自分の中で一番の命題としているのです。
それを思い出したとき、自分の目の前に「Facebookを続ける」以外の別の道が開けた気がしました。人とは何か、心とは何かをしっかり勉強しなくてはいけない。何も知らずに知っている気持ちになってはいけない、と。
誤解を招いてしまうといけないので最後に書きますが、決してFacebookが悪いと感じているわけではありません。上手に活用して人脈を広げている人もいますし、有意義なタイムラインを自分で作っていける素晴らしいツールだと考えています。どの場に行っても「自分」を失わない人なら振り回されることなくうまく使えるでしょう。
幸い、Facebookには「利用解除」という仕組みがあります。Facebookの利用解除は
という利点があります。
実際、お休みしてみて「ほとんどのものは、無ければ無いで生活は成立する」と痛感。なので私はもうしばらくお休みするつもりです。
※この記事は、誠ブログのFacebookをやめたら世界が変わったより転載、編集しています。
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