引っ越しってすごい!:感動のイルカ(1/2 ページ)
失意のうちに引っ越しするはめになった浩。そんな浩の目にとまったのは、引っ越し業者のチラシに書かれた「バイト募集」の文字だ。さっそく電話をかける浩であった。
前回までのあらすじ
ビジネス小説「奇跡の無名人」シリーズ第3弾「感動のイルカ」は、アクティブトランスポートの代表取締役兼CEOである猪股浩行さんの実話に基づく物語である。
主人公の猪狩浩(いかり・ひろし)は、15人の部下を持つほど営業マンとして成功を収めたが、不況になるにつれ部下の管理も行き届かなくなり、浩本人が取り込み詐欺に遭ってしまった。会社からはリストラされ、自宅も引っ越しするはめに。そんな時に目に付いたのが、引っ越し業者のチラシに書いてあった「バイト募集」だった――。
額に汗して働こう。それがオレにはそれが一番だ――そう思っていた矢先だったので、引っ越し屋のバイトは、何か天啓のように浩には感じられた。
次の日の朝、チラシに書いてあった番号に電話した。午後から面接をやるから来いという。履歴書は要りますかと聞くと、そんなものは面接すれば分かるから、とりあえず免許証だけ持ってこいという。考えたら、バイトだからそんなもんだなと浩は思った。
会社は、浩のアパートから徒歩15分ぐらいのところにあった。門の向こうに、4トントラックが4台ぐらい停められそうな駐車場があった。2トン車が1台だけ残っていた。あとは出払っているのだろう。
駐車場と言っても、空き地に砂利を敷き詰めただけのものだった。まだ春というには少し肌寒い時期だったので雑草はまばらだったが、これが夏なら雑草だらけのはずだ。
奥にプレハブの事務所らしきものがあり、さらにその向こうに二階建ての住居があった。社長の自宅だろう。
事務所に入ると女性の事務員が伝票の整理をしていた。無視しているので、こちらから声をかけた。
「すみません。バイトの面接に来た者ですが」
ソファーに座るよう目と手で促された。人付き合いが嫌いそうなタイプだ。内線電話で社長を呼び出している。
出がらしの薄いお茶を飲みながら待つこと10分。ようやく社長が現れた。
「電話くれた子?」
「そうです。猪狩浩と言います」
「歳、いくつなの?」
「今年25になります」
「25でバイトかあ。今まで何やってたの?」
浩は今までの職歴を手短に語った。
「ああ、そう。なんで営業を辞めちゃったの?」
「いや、まあ売れなくなりまして……」。ウソではない。
「まあいいや。いちいち詮索してたら、うちみたいなとこに人来ないしね。自動販売機の仕事もやってたんなら、すぐ慣れるよ。明日から来て」
「あのう、条件とかは」
「ああ、うちはけっこういいよ。そうだな、君は体もいいし、25歳だから、日給8千円にしとこう。1日1件が限度の仕事だから、早く終われば、いい時給だぜ。遠距離なら別に手当ても出すし」
確かにバイトとしては良いほうだろう。しかし毎日休みなく働いて、月24万円か。浩は世の中の厳しさを改めて認識した。まあ、アパートは格安だ。生活はなんとかなるだろう。それに一生懸命働いてたら正社員になれるかもしれない。
翌日。社長に言われたとおり、朝の8時半に出社した。三鷹から大宮への引っ越しだという。家族構成は夫婦だけ。4トン車1台、3人組の仕事だ。
「猪狩です。よろしくお願いします」
「ああ。オレは山下、こいつは木田」
山下も木田も、浩より年下に見える。仮に年上でも口の利き方を知らないのは間違いない。
「何も分からないんで、いろいろ教えてください」
謙遜のつもりで言ったのだが、木田が舌打ちした。
「まあ、とにかく乗ってよ」。山下は、そう言いながら運転席に乗り込んだ。浩は真ん中に押し込まれた。
9時半に三鷹に着いた。大宮にマンションを買ったので引っ越すのだそうだ。バブルが弾けてから、物件が急速に値下がりしたので、思い切って買ったのだと言う。結婚して10年目の決断だそうだ。
「3年前ならとても買える値段じゃなかったけど、あのころの3分の1ぐらいになっててね。ラッキーでした」。夫がうれしそうに言う。
梱包は既に終わっていた。トラックに積んで持っていくだけ。引っ越し屋から見ると一番安い仕事だ。夫婦としては、これから住宅ローンもあることだし、少しでも節約したかったのだろう。
それでもやることはたくさんあった。タンスの解体。電気製品の梱包。テーブルなどの角が傷まないように保護材を巻いたりもした。
素人が自分で梱包するので、やたらと重い荷物と、すかすかの荷物があった。山下はまんべんなく運んでいたが、木田は要領がいいらしく軽そうなものばかり運んでいる。はたから見ると選んでいるようには見えないが、見分けるのが得意なようだ。その分、浩には重い荷物ばかり回ってくる。
山下も木田も運ぶのは慣れているので、浩が1往復する間に2往復か、場合によっては3往復している。浩は重い荷物ばかりなので腰が痛くなり、どんどん遅くなってきた。
「使えねえ、ヤツだなあ」。木田があからさまな言葉を投げ付けてきた。
どうみてもオレより5つは年下だと浩は思った。てめえは軽いもんばかり運んでるじゃないかと内心思ったが、けんかをしても始まらない。かといって、すみませんと謝るのもしゃくだったので、無視することにした。
「シカトしてんじゃねえよ」
「まあまあ、やめとけ木田。今日来たばっかりなんだし。それよりとっとと積んじゃおうぜ」
山下があわててとりなした。
浩は腹が立つより、みじめになった。何でこんな年下にここまで言われなきゃならないんだ。
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