マツダがロータリーにこだわり続ける理由 その歴史をひもとく池田直渡「週刊モータージャーナル」(3/5 ページ)

» 2015年09月28日 08時00分 公開
[池田直渡ITmedia]

太平洋戦争突入、そして原爆……

 こうして1931年(昭和6年)に東洋工業初の自動車、マツダDA型三輪トラックが発売される。1929年にはニューヨークで世界恐慌の引き金が引かれ、これに巻き込まれた日本経済は内閣が転覆するほどの大混乱の最中である。特に開国以来対米輸出の柱であった生糸の減速が著しく、時の蔵相、高橋是清の英断による積極財政でこの恐慌を脱したのは1932年。ここから日本の急速な重工業化が始まるのである。1937年には重工業生産が軽工業生産を金額ベースで上回る。

 恐慌の影響を脱したとは言え、明治・大正を通して急速に発展した東京と異なり、まだまだ豊かとは言えない広島では、庶民の物流のための三輪トラックが必要だと考えた重次郎は、国家総動員令が発令された1938年(昭和13年)に新たに「グリーンパネル号」を発売する。暗い時代の足音が忍び寄る時代に反発するように、グリーンパネルには「青春・幸福・平和の代名詞」と明るいキャッチコピーが付けられた。こうして東洋工業は三輪車メーカーとしての地歩を固めていった。

 1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まり、1945年(昭和20年)に戦争が終わる。広島の終戦と言えば当然原爆の話をしなくてはならない。爆心地から5.5km離れていた東洋工業本社は幸いなことに被害を免れたが、市内にいた多くの関係者が犠牲となった。重次郎は当日朝、広島市内で床屋に寄ってから出社し、幸いに無事だった。しかし実は床屋ではタッチの差で次の客が現れたのだ。この客は重次郎の散髪を待って席に着いたのだという。彼の安否はわからないが、時間から見て床屋で被災したと考えるのが妥当だろう。もしこの順番が前後していたら、重次郎はここで命を落としていたことになる。奇しくも重次郎70歳の誕生日のことである。

 原爆によって広島が焼け野原になった後、東洋工業の三輪トラックは広島の復興の原動力として活躍した。朝鮮戦争の特需をきっかけに戦後の混乱が収束するのは1950年代に入ってのことだ。1951年になると、重次郎は社長を長男の恒次に譲る。東洋工業はこの間「工業で地球に貢献する」を実践するため多くの三輪トラックを送り出した。しかし時代は徐々に高度経済成長の坂を登り始めていた。

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