三菱自動車の日産傘下入りが「シナリオ通り」に見えてしまう3つの理由スピン経済の歩き方(4/6 ページ)

» 2016年05月17日 08時05分 公開
[窪田順生ITmedia]

両社の蜜月関係はひっそりと続いていた

 当時、ゴーン社長も、「日産にとって三菱自を活用することはある。ぜひやりたい」と思いっ切り前のめり。益子社長(当時)も、「その可能性は消えていない。両方にメリットがあれば前向きに取り組む」とまんざらでもなかった。三菱商事自動車事業本部長だった益子氏は海外経験が豊富でゴーン氏とウマがあった。互いの利益も一致しており、提携は秒読みだった。

 実際、2004年10月28日の日本経済新聞は「三菱自、日産と軽自動車で提携――来春にも新会社、国内販売立て直し」と報じ、水島製作所を新会社に譲渡することなどを含め日産との間で調整しているとした。

 だが、残念ながらこの提携話は「幻」に終わる。

 独・ダイムラークライスラーからの経営支援を打ち切られたことで、三菱グループがガッツリと管理下に置くという方針となったからだ。

 ただ、両社の蜜月関係はひっそりと続いていた。2005年、三菱自は仏プジョー・シトロエン(PSA)にSUVをOEM供給する業務提携をスタート。また「三菱・プジョー・シトロエン連合」などという話も出たが、2010年3月に資本提携の交渉が打ち切り。入れ替わるように「パートナー」としての存在感を増してきたのが、日産だ。

 2010年12月14日に、協業拡大を公表。日産のゴーン氏と益子社長(当時)が催した共同記者会見は、「業務提携の範囲にもかかわらず資本提携並みに仰々しく豪華にセッティングされた会場」(週刊ダイヤモンド2011年1月1日)で行われた。

 なぜここまで気合いが入っていたのか。2005年のPSAとの業務提携発表よりも華々しくというルノーの見栄もあったかもしれないが、2004年から水面下で進めてきた「交渉」がようやくまとまったということも大きい。実際、当時の日経産業新聞(2010年12月15日)には関係者談として、「6年越しに、ようやく一歩を踏み出した感じだ」という言葉が掲載されている。

 では、このような両社の「蜜月関係」はいつから始まったのか。さかのぼると三菱自が最初のリコール隠しで窮地に立たされていた2000年ごろにゆきあたる。

(出典:三菱自動車)

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