「中古車で十分」の先に起こる日本の不幸化池田直渡「週刊モータージャーナル」(2/4 ページ)

» 2016年05月30日 08時00分 公開
[池田直渡ITmedia]

キーワードは合成の誤謬

 さて、節約は堅実な戦法であるとして、皆でやるとどうなるだろうか? 経済の世界には「合成の誤謬(ごうせいのごびゅう)」という言葉がある。部分の最適化が全体最適と相容れないケースの話だ。例えば、映画館で火事が起きたとしよう。個人の生存を考えればできるだけ早く逃げ出すことが正しい。最初に脱出するのと、最後に脱出するのではリスクが違う。だから個人の最良の選択肢は「誰よりも先に逃げ出す」ことになる。しかし、全員が同じことを考えれば、狭い出口に人が殺到し、将棋倒しになって誰一人助からないということも起きかねない。こうした場合に全体最適化をするためには退出順序を決め、全体の効率を上げて「最後の人を最も早く脱出させる」方法を考えることだ。

 日本人はこういうことが比較的得意である。例えば、電車の乗り降りの際、降りる人を優先して左右に分かれて出口を広く開け、降りる人の退出を最速化することが、結局は乗り込む人が最も早く乗れる方法だということをほとんど誰もが知っていて、駅員が整理を行わなくても自然にフォーメーションが実行されている。世界的にも恐らくは希なことだと思う。仮に単語としては知らなくても、日本人は合成の誤謬を実践レベルで知っているのだ。

 こうした合成の誤謬の観点から冒頭に記した中古車購入の話を見たらどうなるか? それはもう言うまでもないだろう。新車が売れなくなってメーカーの業績が下がる。業績が下がるからサプライヤーを含めた自動車産業従事者の給料が下がる。労働人口の10%を占めると言われる自動車産業従事者の所得低下は消費を押し下げてほかの産業の業績も下げることになる。こうして国民大部分の給料が下落すれば、より中古車指向が強まっていき、そのスパイラルは再度日本を深いデフレの淵へ飲み込んでいく可能性があるのだ。

 個人の判断としては正しい「消費の抑制」が、合成の誤謬によってさらなる個人経済の悪化に循環的につながってしまうのである。ここで「だから個人がお金を使わなくてはいけない。新車を買え」という結論を出すのは短絡的に過ぎる。全員がそうすれば確実に状況は変わるが、気の早い人だけが頑張って新車を買ったとしても、多数派が追随しない限り結果は変わらない。結果として全体最適化につながらなければ、個人的判断の間違いになるだけのことだ。

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