タミヤのラジコンはこうしてブームになった一大ブームの仕掛け人たち(5/6 ページ)

» 2016年10月14日 06時45分 公開
[前田靖幸ITmedia]

タミヤ初の価格戦略とキャラクタライズ

 今振り返れば、ここでの問題解決の迅速さはすごかった。1983年12月にリリースしたマイティフロッグを1万4800円で売出し中だったのに、翌年5月に開催のホビーショーまでに新商品のグラスホッパーを7400円で販売することになった。当時のユーザー志向として540モーターへのグレードアップ版が望まれることは自明だったので、併行して「ホーネット」(9800円)を開発し、同年秋にラインアップすることも決まった。どれくらいスピーディーなのかというと、他社が1年間隔でやることを、その半分以下の5カ月間隔でやり遂げていくようなノリだった。

 ニュースソースが確保できたことで、発売日までのティーザー企画を複数回ずつ予定するなどして、向こう1年間のパブリシティのメニューも大枠で組めた。後日、このスピードが戦略の決め手になることがズシリと身に沁みる。

ファミコンの存在

 商品の詳細については割愛するが、RCカーの登竜門マシンとしての新作2台は、シャーシや足回りの部品点数を極端に減らし、パワーユニット、サスペンション関連パーツ、ボディ(スチロール樹脂かポリカーボネート樹脂か)以外を全て共通化することで、金型の製造コストを抑え込んだ。当時、プロポと専用バッテリー&充電器セットを含め2万円台でRCカーデビューできるようになったことはとても画期的で、その後のムーブメントへの大きな要素になった。

 グラスホッパーの7400円という価格は、同年に「ロードランナー」や「ゼビウス」の話題で人気が沸騰していたTVゲーム機「ファミリーコンピュータ」の本体価格の半額でもあった。それまでに比べ、手が届く(買える)印象を強く与えることができた。そして、このころのファミコンユーザーが所有するゲームソフトは平均3〜4本になりつつあって、彼らは既に3〜4万円をファミコンに費やしている状況だった。RCカーだけが特段高額なホビーではないことを大きな声で言えるようになったのだ。

 ファミコンが全盛期に入る少し前までにRCカーのイメージ展開ができたことで、少年誌においてカーホビーというジャンルが既成事実化して何気ない底流ができ、後の「レーサーミニ四駆」の展開を容易にすることにつながっていく。

RCカー「スーパードラゴン」のスペアボディセット(C)TAMIYA RCカー「スーパードラゴン」のスペアボディセット(C)TAMIYA

 このRCカーとファミコンのコロコロコミック誌上での顔出しのタイミングは、今でも奇蹟だったと思う。もしグラスホッパーとホーネットの発売が半年遅れていたら、RCカーはファミコン勢に完全にスポイルされていただろう。

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