こんにちは、高橋名人です。
私が、「名人」として活動を開始したのは、任天堂の家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」が発売されてから2年後の1985年春です。同年9月には任天堂から「スーパーマリオ」が発売されてファミコンブームに火がつき始め、翌86年に大ブームを迎えたのです。最終的に日本だけで累計1900万台以上も売り上げるお化けヒット商品になりました。
そのころ私はゲームソフト会社、ハドソンの宣伝担当社員でしたが、85年末に開催された、とあるイベントの記事が東京新聞に掲載されたことがきっかけとなり、それまで子どもを相手に小学館の漫画雑誌「コロコロコミック」でしていたファミコン普及の活動が、より一般にまで広がっていきました。
マスコミの間でファミコンを記事にしたとき、話のできる人間として矢が当たったのも人気を後押ししてくれました。冷静に振り返れば、とてもラッキーで、タイミングが合っていただけにも感じます。
ファミコンブームの前後を身をもって体験した者として、今回は、なぜファミコンブームが生まれたのか、そのブームを作った、またはその波に乗ったソフトハウスの取り組みなどを紹介します。
本題に入る前に、まずはその時代の子どもたちを取り囲んでいたビデオゲーム業界について簡単に説明します。
1971年に世界初のアーケード式ビデオゲームである「コンピュータースペース」が登場しました。このゲームは、今のようなスティック型コントローラーではなく、それぞれが個別のボタンということで、操作が難関で人気には至りませんでした。ただ、今見ても未来的な筐体(きょうたい)の姿は、ずっと眺めていられるくらいに素晴らしいデザインでした。
翌72年には、米アタリから「PONG」が発売され、アーケードゲームセンターの中で、ビデオゲームが、その人気を確立していきます。昨年公開された映画「ピクセル」の冒頭シーンでも、その当時の様子が再現されていましたね。
日本では「ブロック崩し」や「テニス」のゲームで徐々に人気が出てきていましたが、78年に登場した「スペースインベーダ」が、ビッグバン級の大流行になりました。
このゲームが登場してから、ゲームセンターや、テーブル筐体を置いたゲーム喫茶(当時はインベーダーハウスと呼ばれていた)が乱立していきます。日本中の100円玉が、ゲーム機に吸い込まれていき、日本銀行が100円を追加製造するまでの事態となり、それまでの平均製造枚数は、3億〜4億枚だったのですが、80年には6億枚にまで増えました(関連リンク)。
しかし、残念なことに、1プレイの100円を恐喝するなどの行為も増えていき、全国のPTAは、小・中学生のゲームセンターへの入場を禁止するのです。当時の子どもたちは、ビデオゲームを遊びたくても遊べないという状況になってしまったわけです。
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