伊丹空港アクセス線が再起動 空港連絡鉄道の現状と展望杉山淳一の「週刊鉄道経済」(2/5 ページ)

» 2017年09月22日 07時00分 公開
[杉山淳一ITmedia]

大阪空港直結路線は40年の悲願

 伊丹空港こと大阪国際空港は1939(昭和14)年に大阪第二空港(伊丹飛行場)として開港した。木津川飛行場の移転先として作られたため「第二」と名付けられたという。戦後はGHQ(連合国軍総司令部)に接収され、1958年に民間航空の空港として再開港し、翌59年に国際線が就航。大阪国際空港となった。60年代の高度成長期に航空便も増加したため、大阪空港は大型機対応の第二滑走路を整備。70年の大阪万博では国際線が大いににぎわった。

photo 伊丹空港と大阪(梅田)の位置関係。阪急が構想する空港連絡線を赤い点線で示した。茶色の細い点線は、1970年代に空港連絡線と合わせて構想された急行新線(国土地理院地図を加工)

 実はこのころ、阪急電鉄が大阪空港直結路線を構想していたという。ルートは今回の構想と同じ、宝塚本線の曽根駅から分岐するルートだった。航空需要が旺盛であり、阪急宝塚本線からも近いという立地。しかし、当時の宝塚線は運行本数が上限に達し、曽根駅から空港線を分岐しても、空港発着列車を宝塚線に直通する列車を作れなかった。そこで、曽根駅から神戸本線の神崎川まで急行新線を作り、宝塚本線の列車を神戸本線へ迂回(うかい)させようという計画だった。しかし、急行新線計画は頓挫。急行線前提の空港線も見送られた。

 阪急空港線計画が見送られた理由はもう1つある。伊丹空港自体の存続問題だ。伊丹市のWebサイトによると、1964年のジェット旅客機就航をきっかけに騒音問題が深刻化。解決を模索する中で70年に第二滑走路が完成。伊丹市は73年に「大阪国際空港撤去都市」を宣言する。航空行政側は、伊丹空港のこれ以上の拡張は難しいと判断。新空港の建設を検討していた。それが関西国際空港である。伊丹空港騒音問題と大阪都市圏空港の拡張という解決策として「関空開業後、伊丹空港は閉鎖予定」という基本方針となった。

 阪急としては、これでは空港連絡鉄道の建設に着手できない。ところがまた風向きが変わる。関空開業後の伊丹空港について、国が廃止ではなく存続の意向を示した。関空は大阪都心から遠く、伊丹空港は近い。騒音問題に抵触しない時間帯に限定して航空主要路線を残したい。これに対して伊丹市はどうしたかといえば、航空機自体の低音化、地域経済発展の観点から、伊丹空港存続に転じた。2007年に伊丹市は「大阪国際空港と共存する都市」を宣言した。

 この間、伊丹空港には1997年に大阪モノレールが乗り入れ、大阪空港駅が開業している。大阪モノレールは大阪府が大半を出資する第三セクターであり、路線計画は大阪都心部を囲む環状線だ。伊丹空港が存続に向かっているという追い風もあったけれども、もし空港がなくなっても、跡地の開発にとって鉄道は必要という判断があったのだろう。ただし、大阪モノレールは高速道路に併設する形で建設され、既存の放射状の鉄道路線を結ぶヨコ糸である。都心への空港連絡路線ではない。

 しかし、これで伊丹空港の存続は安泰、とはならなかった。伊丹空港の人気が高く、関空の経営は低迷する。膨大な建設費を費やし、拡張にも対応した関空の経営安定化が急務となった。そこで当時の大阪府知事などから「伊丹空港廃止、関空移転論」が再燃する。また伊丹空港は不安定な立場となった。曲折を経て、この問題は「関空と伊丹空港の経営統合」で決着した。伊丹空港の利益から、関空の安定、発展に向けた費用を捻出する。関空はLCC(格安航空会社)の空港として注目されており、将来が明るくなっていた。

 阪急電鉄が大阪空港直結路線に前向きになった。というよりも、ようやく伊丹空港の存続が確定されて、建設のための条件がそろった。この路線が開通し、伊丹空港が便利になって利益を出せば、関西空港の経営安定化にもつながる。関西空港と伊丹空港の経営統合は高度な政治判断といえる。

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