本当は「長生き」なんてどうでもいい定年バカ(4/4 ページ)

» 2017年12月04日 07時24分 公開
[勢古浩爾ITmedia]
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ただ元気で生きてくれさえすれば

 地元のショッピングモールで、息子さんの両手を引いて、150メートルほどの長い通路を往復しているお父さんがいる。最初に見かけたのはもう何年も前になる。息子さんは十代後半だと思うのだが、スティーヴィー・ワンダーのような黒メガネをかけた顔を天井に向け、小さな歩幅で傾きながら歩いていく。お父さんは私と同年配くらいだろうか。平日の午後、週に何度も見かけるから退職はしていると思われる。お母さんは車いすを押して、2人のあとを付いていくか、テーブルがある席で待っているかしている。

 こんなことを勝手に書いて、そのご家族に申し訳ない気がする。しばらくそのモールには行っていなかったのだが、先日また見かけて、まだやっていたのか、と驚いたのだ。もう何年間も続けているに違いない。彼の歩調は以前より少し速くなっているようで、多少は改善したのか、よかったな、と思った。彼の状態がもっとよくなるといいと思うが、気になるのはご両親のほうである。息子さんの疾患がどういうもので、家族がどういう状態なのか、むろんなにも分からない。

 もしかしたら、一般家庭よりよほど明るい家庭なのかもしれない。お父さんは交友が広く、酒を飲むのが楽しみで、お母さんはなにか熱中できる趣味をもっているのかもしれない。それでも自分たちがいなくなったら、この子はどうなる? という心配は消えないだろう。お金や健康は自分のためというより、子のために絶対に必要なのだ。状況はそれぞれ違っても、「充実」だの「生きがい」だのというぜいたくとは無縁な、このような心配を抱えた家族は少なくないのではないか。

 生きがいというのなら、両親にとって子どもの回復が生きがいなのだろう。生きてくれさえしたら、元気になってくれさえしたら、普通に生きていくことができさえしたら、という最低限の願いは、最大限の願いでもあるのではないか。私はぜいたくなことはいうまい、と思う。

著者プロフィール:

勢古浩爾(せこ・こうじ)

 1947年大分県生まれ。明治大学政治経済学部卒業。洋書輸入会社に34年間勤務ののち、2006年末に退職。市井の人間が生きていくなかで本当に意味のある言葉、心の芯に響く言葉を思考し、静かに表現しつづけている。1988年、第7回毎日21世紀賞受賞。著書に『結論で読む人生論』『定年後のリアル』(いずれも草思社)、『自分をつくるための読書術』『こういう男になりたい』『思想なんかいらない生活』『会社員の父から息子へ』『最後の吉本隆明』(いずれも筑摩書房)、『わたしを認めよ!』『まれに見るバカ』『日本人の遺書』(いずれも洋泉社)など。


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