土肥: ハブは1980年に創業して、神戸の三宮にオープンしました。当時の状況を教えてください。
太田: ダイエー創業者の中内さんは英国に行って、現地のパブに足を運びました。そして「英国のパブを日本でも広めよう」となって、三宮に1号店をオープンしました。2号店は六本木。その後、渋谷にも出店して、いずれも繁盛していたのですが、地方の札幌、沖縄、平塚などは苦戦していました。
土肥: ちょ、ちょっと待ってください。店舗戦略がひどくないですか? 神戸に出店したのであれば、次は大阪、次は京都……といった感じで、近隣に出店するのが“王道”なのでは?
太田: ご指摘のとおり、当時は出店戦略が定まっていませんでした。ただ、「10年で1000店」という目標を掲げていたので、それくらい大胆なことをやらなければいけない。また、当時のダイエーは絶好調だったので、大胆なことができる――。などと思っていました。
とはいえ無謀な出店戦略などがたたって、1986年に事業を清算しました。会社として拡大するのは難しいかもしれないが、パブ事業は残そうと。「HUB」の屋号は残して、細々と営業を続けてきました。
土肥: 日本のあちこちに店舗をつくったことのほかに、うまくいかなかった要因はどのように分析していますか?
太田: カウンターでドリンクとおつまみを注文をする。そして、自分でドリンクを運ぶ「キャッシュオンデリバリー」を普及させようと思っていたのですが、なかなか受け入れてもらえませんでした。お客さまからは「オレが買いにいくのか? 面倒だなあ」「買うたびに席を立ったら、酔うことができないじゃないか」「フードメニューはこれだけ? もっと増やしてよ」といった意見がありました。
こうした声を受けて、一部の店を変えてみることに。お客さまの注文を聞いて、ドリンクを提供する。フードもおつまみだけでなく、さまざまなモノを用意する。結果、どのようになったと思いますか。「洋風居酒屋」のような形になったんですよね。
このほかにも収益を上げるために、さまざまな手を打ちました。例えば、カラオケがブームになれば店内にカラオケの部屋をつくったり、他社で昼にアルコールを出す店が好調であれば朝も昼も営業したり。事業の軸がブレにブレながらも、なんとかギリギリの収益をあげながら運営していました。
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