分かりやすいのが、太平洋戦争における陸軍戦車隊だ。当時、日本の主力となっていたのは「チハ車」と呼ばれる「九七式中戦車」。他国のガソリンエンジン車と異なり、世界で初めて空冷式ディーゼルエンジンを採用していたため火炎瓶を投げられても炎上しない。スピードも早く、その技術力は戦後のディーゼル車にも応用されたという。
なんてことを聞くと、「やはり日本の技術は世界一ィィィ!」と、『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくるシュトロハイム少佐ばりに大喜びをしてしまう方ばかりだと思うが、レオパレスのアパートが敷金ゼロで家具や家電など完備されていても、肝心の界壁がなかったように、この「チハ車」にも肝心な装備がスコーンと抜けていた。
1943年、20歳のころに学徒動員されて兵庫県加古川の戦車第十九連連隊で初年兵教育を受け戦車手となり、後に小隊長にまでなった経歴をもつ、作家の司馬遼太郎はこう述べている。
「この戦車の最大の欠陥は、戦争ができないことであった。敵の戦車に対する防御力も攻撃力もないにひとしかった。防御力と攻撃力もない車を戦車とはいえないという点では先代の八九式と同様にで、鉄鋼がとびきり薄く、大砲は八九式の五七ミリ搭載法をすこし改良しただけの、初速の遅い(つまり砲身のみじかい)従って貫通力のにぶい砲であった。チハ車は昭和十二年に完成し、同十五年ごろには各連隊に配給されたが、同時期のどの国の戦車と戦車戦を演じても必ず負ける戦車だった」(戦車・この憂鬱な乗物)
そんな「司馬史観」は信用しないぞ、最近では日本が大敗したノモンハンも実はソ連軍の被害のほうが甚大だったんだ――。さまざまな反論が聞こえてきそうだが、「チハ車」の大活躍で多くの日本兵が助けられたとか、敵国が震え上がったみたいな話はほぼ皆無という動かしがたい事実もある。
では、なぜそれなりの技術力をもっていた陸軍が「壁のないアパート」さながら、「戦えない戦車」をつくってしまったのか。工業国として未熟だった、資源不足でしたしかたなくなど言い訳は星の数ほどできるが、本質的なところを言ってしまえば、陸軍参謀本部というマネジメント層らの「思想」によるところが大きい。
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