「妄想にとらわれているのは貴様だ! 目を覚まさせてやる、歯を食いしばれ!」といますぐ殴りかかりたい衝動にかられている方もいらっしゃることだろうが、さまざまな客観的事実がそれを雄弁に物語っている。
例えば、2017年7月、非政府組織「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」が2万人を対象に、「しつけ」に伴う子どもの体罰について尋ねたところ、「必要に応じて」が16.3%、「他に手段がないと思った時のみ」が39.3%と、ある程度の体罰を容認している人が57%にのぼったのだ。ちなみに、体罰を法律で禁じられているスウェーデンで同じ調査をしたところ容認は10%にとどまっている。
この“体罰容認カルチャー”は、先ほどのスルガ銀行行員や女子体操選手の暴力指導に対する、ワイドショーコメンテーターや、ネット民から飛び出す以下のような意見ににも如実にあらわれている。
「金融機関ではこの程度の脅しや暴力など珍しくない。昔の銀行員はもっとひどい目にあった」
「暴力と指導の境界は難しい。限界を超えるにはある程度の厳しい指導が必要。それを乗り越えたからいまの自分がある」
「本人も納得して、硬い絆があるのだから、暴力ではなく指導の一環だ」
「暴力はよくない」などと前置きをしながらも、どこかで暴力指導を「ある程度は必要」「愛があればそこまで目くじら立てなくても」と容認する人たちが一定数存在しているのだ。
事実、速見コーチと同じ日本体育大学出身である桜宮高校バスケ部顧問が、2012年にキャプテンを務めていた生徒を皆の前で見せしめ的に体罰を行って、その後に彼が自殺をした時も同じような声が、生徒や保護者からでている。
この「愛のムチ理論」ともいうべき、信仰にも近い暴力観が、職場、学校、家庭など社会の隅々まで浸透しているのが、いまの日本なのだ。では、この“暴力容認思想”は一体どこから生まれているのか。過去へさかのぼってその源流を探してみたい。
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