ごく親しくしていた国文学の友人が心配してくれた。留学しておかないと研究もうまくいかないのではないか。せっかくのチャンスだから、やはり、留学したほうが賢明ではないか──友人のことばには誠意、友情がこもっていてありがたいとは思ったが、従うことはできない。
「きみたちは、平安朝へ留学しないが、りっぱに源氏物語の研究をしている。もし留学が可能であったらなどと考えることもできないが、留学したって、たいしたことはできないだろう。日本で英語、英文学をやるのも、いくらか古典研究のようなところがある。
留学は、ひょっとすると、マイナスになるかもしれない。すくなくとも、日本人としてできる勉強は、外国に留(とど)まってなくても進められるだろう。だいたい、1年や2年、留学したところで、学べることは知れている。母国を離れて“外国”文学は存在しない。ぼくは、そんなふうに考えている。間違っているかもしれないが、それに殉ずるつもりだ……」
そんなことを言ったのは、70年前のこと。
愚鈍の身である。変節ということはできない。
仲間は次々留学する。そしてなにがしか新しい知識をもって帰るが、びっくりするような成果は上がらないのである。いつまでも同じことをつついていると、外国におくれる。もう一度、留学する奇特な人もないではないが、借りもの、モノマネに花の咲くことはむずかしいようである。
そこへいくと、非留学人間はアウトサイダーだから、気が楽だ。向こうで何が流行しようと自由だが、こちらがお付き合いする義理はない。気が楽。勝手なことを勝手に考えるのである。
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