暴力団取材の第一人者・溝口敦 「刺されてもペンを止めなかった男」が語る闇営業問題の本質「メディアの企業体質」に苦言(1/3 ページ)

» 2019年07月26日 05時05分 公開
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 「メディアが政治権力や大企業を真っ向から批判しなくなってきた」といわれて久しい。新聞・雑誌は購読数の急減で影響力の低下が叫ばれている。一方、企業からの広告収入に依存しがちなネットメディアが、こうしたマスコミの代替の役割を果たせているとは到底言い難いのが、メディアの実情だ。

 何より、メディア企業に勤める記者にとって、公権力や企業の言い分、宣伝をそのまま記事にする方が、圧倒的に楽な仕事である点は否定できないだろう。逆に彼らのタブーに踏み込んだ批判的な取材には、摩擦や取材拒否、時に「訴訟リスク」さえも生じ得る。それよりもいわゆる「提灯(ちょうちん)記事」「ステマ記事」を書いていた方が、会社員人生を大過なく過ごせるのだ。

 そんな“サラリーマン記者”とは真逆の姿勢を貫き、日本のタブーに斬り込み続けてきた男がいる。日本随一の暴力団ジャーナリストにして、77歳の今なお幅広い分野で旺盛な執筆活動を続ける溝口敦氏だ。

 同和利権や暴力団の力を背景に政財界を牛耳った「最後のフィクサー」浅田満氏の実像を描いた『食肉の帝王』(講談社)は、講談社ノンフィクション賞などを受賞。「創価学会批判の古典」ともされる『池田大作 「権力者」の構造』(講談社+α文庫)なども手掛け、フリージャーナリストの立場で反社会勢力(反社)や宗教など日本社会の暗部に光を当ててきた。

 溝口氏を象徴するエピソードの1つが「1990年、山口組組長の本を出そうとした際に組幹部から出版を止めるよう言われ、断ったら男に背中を刃物で刺され重傷を負った」事件だ。2006年には、溝口氏の長男もやはり元組員にハサミで襲撃されて大ケガを負っている。

 しかし、溝口氏は書くことを決して止めなかった。会社のような組織が自分を守ってくれるわけではない“一匹狼”として、最も取材が難しいテーマの一つである暴力団になぜ彼は対峙し続けられるのか。現在世間を騒がせている芸能人と反社会的勢力の「闇営業問題」に何を思うのか。前後編で迫る。

photo 溝口敦(みぞぐち・あつし)1942年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。出版社勤務などを経て、フリーに。2003年『食肉の帝王』(講談社)で講談社ノンフィクション賞を受賞。ベストセラーの『暴力団』(新潮新書)、『詐欺の帝王』(文春新書)、『溶けていく暴力団』(講談社)、『山口組三国志――織田絆誠という男』(講談社)など著書多数。近著は『さらば! サラリーマンーー脱サラ40人の成功例』(文春新書)。暴力団、半グレなど、反社会的勢力取材の第一人者(撮影:山本宏樹)

背中を刺されても暴力団取材を止めなかった男

――溝口さんと言えば、「背中を刺されて重傷を負いながらも暴力団取材を止めなかった」話が業界では伝説になっています。今のメディアの記者には、本当の意味で「命を懸けて記事を書いている」人はなかなかいないと思いますが、なぜできたのですか?

溝口: 別にですね、命を懸けたつもりは無いわけです。渡辺芳則氏(当時の山口組五代目組長)の意向を受けた後藤忠政氏(当時の山口組幹部)が、僕に「(山口組についての出版前の著作の)原稿を見せろ」と言ってきたわけです。

 僕も騒ぎにはしたくなかったので、「見せますよ」と言ったのです。でもよく考えると、何せ渡辺氏の批判が書いてあるから見せると収拾が付かなくなってしまう。そこで、後藤氏には「見せる用」の文章を用意しようと考えました。そうしたら、後藤氏が「見せる見せないじゃない。出版を止めてくれないか。初版の印税分は山口組が全部持つ」と電話で言ったわけです。

 それで頭にきました。彼(後藤氏)に以前、事務所に呼び出された時、「俺とあんたは知らない仲じゃないし、ヤクザ人生をつぶすようなことはしないでくれ」と言われたこともあった。だから、出版を止めてくれという電話があった時には「冗談じゃない」と。「俺のライター生命が無くなるんだ。そんな話に乗れるわけがない」と、こちらから勝手に電話を切ったのです。

 何というか、「やるならやってみろ」という気持ちもありました。また、「やったら(襲撃したら)本が売れちゃうよ。あんたの親分の渡辺が恥をかくんだよ」というつもりもありましたね。そんなこと、口には出しませんでしたが。

 この本で僕は約1000万円くらいの印税収入を得ました。笑い話として言うのですが、「(僕の)命の価値はおよそ1000万円です」と。もちろん、死ななかったし死ぬつもりも無かったけれど。

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妻「本人が電話してきたなら大丈夫」

――刺された後は、暴力団に自身の行動パターンを察知されないよう、日頃からかなり気を配っているとの話ですが、本当ですか?

溝口: それは気を付けていますよ。刺される前より、後の方が怖く感じるわけで。後ろから走ってくる足音が聞こえると、「うわっ」と振り返ってしまうとか。そういう習性は刺された後にできましたね。

――本当に刺されると、事前に想像していましたか?

溝口: 本を出した直後はたまたま海外の仕事がありまして、帰国して「まあ平気だろう」と思っている時に刺されました。僕は「あいつらも腰が引けて、(直接襲撃せず)銃弾を自宅か事務所に打ち込むのでは」と思っていて、刺されることは予想していませんでした。

――家族はどんな反応でしたか?

溝口: (溝口氏の事務所があった)東京・高田馬場で刺された後、近くの文房具店から家に電話したのです。そうしたら息子しかいなくて、「刺されてこれから救急車で病院に運ばれるようだ。お母さんに伝えて」と言いました。当時、女房はたまたま近所の葬式に参加していて、帰宅後に息子から話を聞いた彼女は「ああ、本人が電話してきたなら大丈夫だ」と(笑)。女房も合理的な人間で、別に心配していませんでしたね。

――ちなみに、奥さんは昔からそこまで肝が据わっているタイプだったのでしょうか?

溝口: だって、そこまで肝が据わっているかどうかを知る体験なんて、なかなか無いじゃないですか(笑)。ただ、あまり感情的になることは無かったんじゃないかな。

――06年には息子さんも元組員に刺されました。自身だけでなく家族も重傷を負う事態、どう受け止めましたか?

溝口: あの時は……。僕は(東京の)麻布あたりにいて、これから飯でも食おうかという時でした。当人から「家を出たら尻を刺された」と電話がありました。「ズボンの後ろのポケットに財布を入れておいたためケガは軽く、歩ける」「犯人は逃げる時に神社の垣根を越えようとして携帯電話を落とした」などと言っていましたね。僕もそんなに心配せず、その日の予定である会食に向かいました。

 せがれも、刺されて恐慌をきたすようなことは無かったですよ。「親父、お前の仕事は俺をこういう目に合わせた、止めてくれ」とは一言も言わない。女房も言いません。ただ、事件後に「あんたも年も年なんだから、人に憎まれる危ない仕事はしないで」とは言われましたけどね。

――暴力団取材とは、ここまで危険なことがあるのですね……。溝口さんはなぜ彼らにそこまでこだわるのですか?

溝口: 暴力団というものはいろいろなことがありますが、ともかく場合によっては「人を殺す」のです。サラリーマンの(企業内部の)お家騒動でも血で血を洗うような騒ぎはありますが、それで殺人事件は起きません。

 でも、ヤクザではあるのです。そういう意味で動きが派手じゃないですか。感情の動きが人殺しにまで行ってしまう。ある意味“劇的”なところがある。そういう面白さはありますね。

 組織としての面白さもあります。権力者がいたり、おべっかを使う者がいたり、権力者をひっくり返そうという人間もいる。組織と人の面白さがある。

 また、僕が最初に出した暴力団の本『血と抗争』(三一書房、現在は講談社+α文庫)は約50年前の作品だけれど、いまだに売れているロングセラーです。暴力団ものは確実にマーケットがある。書き屋商売の人間としては、それに向けて出さない手はないというのもありますね。

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