NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に登場 古い権威を無視し、あえて将軍にならなかった織田信長のリーダー論征夷大将軍になり損ねた男たち【前編】(2/3 ページ)

» 2020年01月18日 04時00分 公開
[二木謙一ITmedia]

天下布武の過程であえて将軍を選ばなかった信長

 信長の父織田信秀は朝廷に献金をして備後守や三河守の官を得ていたが、信長は尾張時代には上総介を自称し、桶狭間で今川義元を破った後は尾張守を称していたが、朝廷より任官を受けたものではなかった。

 信長は足利義昭を奉じて上洛した後、室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いたが、弾正少忠や弾正大弼といった比較的低い官に甘んじていた。

 信長は高い官位は必要ないという合理的な考えの持ち主であるが、朝廷としては、信長に官位を与えて公家組織に組み込まないことには、自らの権威が失われてしまうため、足利義昭の追放後には信長の官位を急激に上昇させた。

 信長は古い権威を嫌ったが、天皇や朝廷に対しては協調的な姿勢を取って利用していた。戦況が不利になるたびに、朝廷に仲介を求めて窮地を脱することも多かった。

 信長は、天正2年に参議に任官してから、わずか3年で従二位・右大臣に昇進している。 右大臣の任官は武家では源実朝以来で、これより上位の官職に任官した武家では太政大臣に平清盛と足利義満、左大臣には足利義教と足利義政のみだった。

 しかし、信長は天正6年4月に全ての官位を返上し、位階を持ちながら官職についていない散位となった。信長は四海の統一後に登用の勅命に応じたいとしていた。

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