NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に登場 古い権威を無視し、あえて将軍にならなかった織田信長のリーダー論征夷大将軍になり損ねた男たち【前編】(3/3 ページ)

» 2020年01月18日 04時00分 公開
[二木謙一ITmedia]
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朝廷から打診のあった太政大臣・関白・将軍の官位

 朝廷では信長の任官が問題になった。朝廷は、天正9年に信長に左大臣への就任を要請したが、信長が正親町天皇の譲位を条件としたとされ、結局は実現しなかった。

 また、天正10年3月に甲州征伐で甲斐武田氏を滅ぼし、小田原の北条氏も実質的に信長に従属したことから、朝廷では信長が関東をも平定したと解釈した。

 そこで、朝廷では信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに、信長の望みによって任ずるという「三職推任」の構想が持ち上がった。

 5月には、武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代村井貞勝の邸を訪れ、二人の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この件について勧修寺晴豊は、日記『晴豊公記』に記している。だが、この話し合いで出た信長への三職推任が、朝廷側からの提案なのか信長側からかは不明である。どちらが提案したかで、信長が朝廷をどのように扱おうとしていたかを知るには重大なものになる。

 すでに信長は政権を立てており、朝廷の一員となって政権を樹立する必要はなかった。 朝廷はすでに政治に関わるという発想は放棄しているが、信長を朝廷の権威の中に取り込むためにも、信長に官位を受けてもらわねばならず、政権を樹立できる三職を選んだと思われる。従って三職推任は朝廷側からの提案とするのが妥当だろう。

 信長が三職推任に回答しておれば問題はなかったのだが、信長が正式に返答をする前に明智光秀による本能寺の変が起こり、信長自身が死去してしまった。

 信長がどのような朝廷の構想を持っていたのかは、永遠の謎となってしまった。

著者プロフィール

二木謙一(ふたき・けんいち)

1940年東京都生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。専門は有職故実・日本中世史。國學院大學教授・文学部長、豊島岡女子学園中学高等学校校長・理事長を歴任。1985年『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞。NHK大河ドラマの風俗・時代考証は「花の乱」から「軍師 官兵衛」まで14作品を担当。主な著書に『関ヶ原合戦』(中公新書)、『徳川家康』(ちくま新書)など多数


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