新型コロナウイルスの感染拡大を受け、約3カ月遅れとなった6月19日、プロ野球が開幕した。そのプロ野球史上に残る名将・野村克也監督が2020年2月にこの世を去った。ヤクルトスワローズを3度日本一に導いた手腕は今も色あせることはない。その卓越した理論と、人間の本質を見抜いた指導法は、野球というスポーツにとどまらず、ビジネスパーソンにとってもリーダーシップや部下育成の方法などの分野で応用可能なもので、まさに後世に残すべき知的財産ともいえるものだろう。
その野村の「遺言」ともいえる著書が、元プロ野球選手の江本孟紀との共著『超一流 プロ野球大論』(徳間書店)だ。野村と江本が対談する形で、両氏のプロ野球界についての持論が展開されている。そして「名伯楽とその愛弟子(まなでし)が令和に遺す、最後のプロフェッショナル論」と銘打たれている通り、組織の上司と部下の在り方にも一石を投じる内容だ。
今回は、その『超一流 プロ野球大論』の中からビジネスや部下の育成に関わる部分を抜粋してお届けする。前編では、日米のプロ野球ビジネスの違いや、地上波での全国放送がなくなってしまった日本のプロ野球ビジネスの課題を語った部分を公開した。
後編では古田敦也や江本孟紀などを育ててきた野村監督の育成術についてお届けする。(一部敬称略)
野村: 「ミーティングでオレがホワイトボードに書いたことを、ちゃんとノートに書き写せ。書くことで覚えるんだ」
ワシがヤクルト監督時代、ほとんどの選手は一生懸命ノートにペンを走らせていた。しかし、あろうことか長嶋一茂は、ノートにドラえもんの絵を描いていた。
当時の野球記者が面白い表現をしていたよ。
「懐から野球の知識を繰り出す野村監督が『ドラえもん』だとすると、古田敦也がノムラ野球を具現化する『のび太』、広沢克己が『ジャイアン』、池山隆寛が『スネ夫』、栗山英樹が学級委員の『出木杉』という構図。でも、みんなが結束して敵(巨人)に立ち向かっていく」
ワシは一茂に説教したんだ。2時間半ほど。
「お前、『いっしょうけんめい』という漢字を書いてみろ。『一所懸命』か『一生懸命』か」(先祖代々の領地=1つの所=を命懸けで守ったことに由来する「一所懸命」が、「一生懸命」に転じた)。
でも、馬の耳に念仏だった。ワシの「ID野球ミーティング」「野球を通しての人間教育」がまったく響いていなかったんや。
一茂のエピソードは枚挙にいとまがない。ワシは90年ヤクルト監督就任。一茂はその前、88年ドラフト1位でヤクルト入団だ。ヤクルトレディが1本100円ぐらいのヤクルト飲料を一軒一軒お届けしている。「選手がぜいたくしていたら申し訳ない」という忖度があって、ヤクルト選手は国産車で、外車禁止。しかも新人は独身寮住まいで、事故防止の意図もあってマイカー禁止。
だが、一茂はドラフト1位入団で契約金が8000万円ぐらいだったから、国産で1番高級車だったソアラを購入して、先輩選手のひんしゅくを買ったというんや。同い年の池山隆寛、古田敦也が野球に必死に取り組んでいるのに、一茂はノンビリしていた。
江本: そんなことがあって、試合前の練習時、記者に囲まれた野村監督は、一茂の姿を見るたびに小言を言ったわけですね。「一茂よ、お前の親父はワシが嫌いで、家ではワシの悪口を言ってんじゃないのか」。
一茂は、野村監督の前を通るたびに目を合わせないで通り過ぎる。僕は言いましたよね。「野村監督、一茂はすっかり萎縮してしまっていますよ。いい加減にしてやったらどうですか」。
僕は一茂がかわいそうになって、実は自分の知人を10人ぐらい集めて全日空ホテルで『一茂を励ます食事会』を開いたんです。
「野村監督はヤンチャ坊主が好きだから、むしろ懐に飛び込んで行くと喜ぶぞ」
「江本さん、ありがとうございます。きょうは気分転換になりました」
そんなことがあってか、98年の参議院選挙のとき、あの長嶋茂雄さんが僕の応援に来てくれたんです。
野村: 好き嫌いで大事な戦力を使わないことはしない。事実、91年6月の広島戦に一茂をスタメン起用すると、3安打5打点の活躍。その試合を皮切りにチームは12連勝の球団新記録をマークして、球団11年ぶりAクラスに大きく貢献してくれたんだ。
野村: ワシの野球を具現化してくれた古田にも1度、2時間ほど説教したことがある。
江本: いろいろなところでせっかく僕が「野村監督の野球は昔の野球じゃない。合理的な野球」とほめているのに、説教ばかりしていたように勘違いされちゃいますよ(笑)。
野村: あれは古田がプロ入り5年目の94年オープン戦のことだったな。前年の93年にヤクルトは西武を倒して初の日本一に輝いた(古田はシーズンMVP)。ファウルフライが、一塁側ベンチの前に上がって、古田が追って行った。ベンチにぶつかりそうになったので、ベンチを避けて打球を捕れなかった。
「去年までのお前やったら、ベンチにぶつかってでも、あのファウルボールを捕っていた。慢心している。気に入らない」
「あと1週間で開幕なので、無理して捕りに行って、ケガをしたら元も子もない」
古田はそんなことを言ったように思う。
「お前、キャッチャー、クビや! 明日からミット持ってくんな!!」
古田は外野手用のグラブを借りて、試合前、外野でノックを受けていたが、ワシはかなり怒っていて、以後開幕までの1週間、オープン戦に出さなかった。チームはオープン戦に負け続けて、あるコーチが古田に「野村監督に謝りに行け」と言ったらしい。
「監督、すみませんでした。キャッチャーをやらせてください」
「そこに正座せい!」
それから2時間、説教した。ワシは、鉄拳制裁はしないが、厳しい言葉はぶつけたよ。しかし、選手を叱ったとき、いつも反省し、自問自答する。
「感情で怒っていないか、愛情で叱っているか」
監督は怒ってはならない。怒るのではなく叱るのだ。「叱る」と「ほめる」は同義語だから。「育成」を難しいと思うかもしれないが、最終的には「愛」だ。
「この子を本当に良くしてやりたい」。そういう愛情をもって接すれば、人間だから必ず思いは通じる。だから、私のプロ野球人生のノウハウを余すところなく、古田に注入した。
ワシは1935年(昭和10年)生まれ。古田は65年(昭和40年)生まれ。野村ヤクルト1年目の90年シーズンから実に30年が経過した。現在84歳のワシは当時55歳、古田は25歳だった。つまり、ちょうど現在の古田の年齢のころ、ワシはヤクルト監督に就任したわけだ。
09年にワシが楽天ユニフォームを脱いでから11年、古田が07年にヤクルトユニフォームを脱いでから13年がたつ。古田は再び監督としてユニフォームに袖を通すのだろうか。
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