菅首相の“ケータイ値下げ”は、格安SIM市場の崩壊を招く ドコモにも副作用本田雅一の時事想々(5/6 ページ)

» 2020年10月29日 12時00分 公開
[本田雅一ITmedia]

 ドコモの元となった移動体通信部門はNTT全体の中では亜流で、どちらかといえば社内ベンチャー的な立ち位置だった。何しろドコモが分社化されたのは1993年のことだ。当時の主な事業はポケベルである。無線での呼び出しが最初にあり、そこから発展して携帯電話へと向かうが、それまでにはまだまだ時間が必要だった。

 まだ未来を強く意識する段階にはなく、無線でこんなことができたら楽しいに違いないと考えて仕事をする人たちの集まりだった。だからこそ、旧態依然としたNTTの中にあってドコモは自由な気質だったのだ。

 90年代、アマチュア無線でパケット通信を行う取り組みを、一部の無線ユーザーが集まって行っていたことがあった。PRUG(Packet Radio User Group)というユーザーグループは、パソコン通信的なことをアマチュア無線で行ったり、自分のクルマに大量のセンサーを取り付け、そのデータをパソコンで集計しながらアマチュア無線で流す、なんて遊びをしていた。

 このグループの支援していたのが実はドコモだった。

 筆者は直接関わっていないため伝聞だが、ドコモは携帯電話網を用いたパケット通信の可能性を探るため、アマチュア無線でパケット通信を行っているテクノロジー好きのグループを支援することで、無線通信の応用に関して学ぼうとしていたようだ。

 おそらくNTT本体ならば、そんなアマチュアの同好会を支援することはなかっただろう。しかし当時のドコモは「承認を得るまでのハンコがNTTの半分以下」といわれ、NTTの強力な技術バックボーンを持ちながらも組織としては身軽な会社だった。

 その後、iモードが生まれるまでのストーリーとは必ずしも交わる話ではないが、ドコモが新たな事業を創成、成長してきた背景には「NTTではなかったこと」が少なからずある。

 そして組織とは生き物でもある。

 経営者が声をかけたからといって、研究開発、商品・サービス企画、パートナー協業など、さまざまなプロセスで業務を進める人間たちが、きちんとパフォーマンスを発揮できるかといえば、そこには疑問符がつく。

シェア4割? それは成績表のようなもの

 ところで、NTTの澤田純社長はドコモ買収を表明した記者会見で、ドコモについて「設立時は100(%)だった携帯電話のシェアが、今は40(%)になった」と話していた。

 いやいや、この4割という数字を少し軽んじてはいないだろうか。

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