「損したくない」で無料に向かう「お散歩界隈」 マーケティングの販促の前提が揺らぐ廣瀬涼「エンタメビジネス研究所」(2/4 ページ)

» 2026年02月11日 07時30分 公開
[廣瀬涼ITmedia]

「おさんぽ界隈」が揺るがす、企業の販促施策

 この行為の魅力は何か。それは「タダである」という一点に尽きる。対価を支払うことなく効用を得られるのだから、当然といえば当然である。ポップアップイベントに足を運ぶことやサンプルを受け取る行為そのものが、いまや一種の「コト消費」として体験価値を帯びている。

 イベント会場までの移動を小さなレジャーのように扱い、参加すること自体が日常のチェックポイント、あるいはゲームのログインボーナスのような役割を果たしている。都内では、新作の飲料やアイスなどがサンプルとして配られていることも多い。

赤城乳業は2025年9月、商品のリニューアルに伴い、サンプリングイベントを実施した(画像:赤城乳業プレスリリースより)

 本来であれば、商品はお金を払えば手に入る。しかし、あらゆるものに対価が求められる現代において、“タダで何かを得られた”という事実そのものが、消費者にとって大きな効用を生み出している。無料であることが希少な価値として立ち上がり、その希少性が体験の魅力をさらに高めているといえる。

 加えて、昨今の不景気の影響もあってか、「消費に失敗したくない」という心理がかつてより強まっていることも「おさんぽ界隈」を盛り上げる要因の一つであると筆者は考える。

 ここでいう“消費の失敗”とは、単に費用対効果が見合わないという従来の基準だけではない。ある消費を選んだことで別の消費機会を逃してしまうこと、さらには自分は何もしていないにもかかわらず他者だけが得をしている状況など、消費行動がもたらす負の影響全般を指している。こうした「損(マイナス)」を回避したいという感情が、消費の意思決定において大きな比重を占めるようになっていると考えられる。

 フランスの哲学者ジャック・ラカンは「欲望は他者の欲望である」と述べている。人は自分の内側から自然に欲望を生み出すのではなく、他者が何を欲し、どのようにそれを手に入れたのかを知ることで、自身の欲望を形づくるという考え方だ。つまり、欲望の基準そのものが、常に他者によって与えられているといえる。

 同様に、思想家ルネ・ジラールも、人間の欲望は他者を模倣することで生まれると論じている。欲望は対象そのものから生じるのではなく、「他者が欲している(あるいは欲しそうな)もの」を媒介として立ち上がる。こうした構造は、他者の行動や成果が即座に可視化されるSNSによって、いっそう強化されているといえる。

欲望はどのように生まれるのか?(画像:筆者作成)

 SNSが生活に定着したことで、私たちは誰もが日常を発信する側になった。食事や買い物、イベント参加などが日々投稿され、そこには「これを手に入れた」「ここに行った」という他人の体験が並ぶ。

 私たちがそれを見て「いいな」「自分もやってみたい」と感じるのは、情報そのものに引かれているというより、他人が得をしている、楽しんでいる様子に影響を受けているからだ。SNSでは、こうした他人の行動が次々と目に入ることで、欲望や消費の判断が強く左右されていく。

 そのため、SNSで「ポップアップやイベントでこれがもらえた。当たった」といった他人の投稿を目にすると、「今日ここにいればこれがもらえたのに」「この人ばかり得をしていてずるい」といった感情が生まれる。

 本来なら、そこに居合わせた人だけが偶然得られた「ラッキー」であるはずの出来事が、他者の欲望の達成として可視化されることで、自分だけが満たされていないという欠乏感へと変換(錯覚)されてしまう。その結果「自分は損をした」という感情が立ち上がるのだ。

 この感情こそが、人々を内容への興味の有無にかかわらず「タダだから行く」という行動へと向かわせているのではないか。言い換えれば、今行って得をしておくことが、将来的に「他人がタダで体験している投稿を見て自分だけが損をした」と感じるかもしれない欠乏を、あらかじめ回避する手段として機能しているのではと筆者は考える。

 SNSマーケティング支援を行う、テテマーチのコラム「大事なのは『バズ』ではなく『準備力』Mimi Beauty流『SNS売れ』の秘訣」 によると、美容業界におけるファン形成の観点から、「おさんぽ界隈」への対応が新たな課題として浮上しているという。

 特に問題視されているのが、ピールオフ広告やポップアップイベントなど、サンプル配布を伴う施策に対する影響である。ピールオフ広告は、通行人が駅構内や壁面のポスターに貼られているノベルティを自由に持ち帰れる仕組みだが、SNSで情報が拡散された瞬間におさんぽ界隈が一斉に押し寄せ、サンプルが瞬時に回収されてしまう事例が報告されている。

2023年、1800枚のサンプルがわずか数時間でなくなったというTorriden(トリデン)のピールオフ広告(画像:アステナホールディングス プレスリリースより)

 その結果、本来リーチしたい一般消費者にサンプルが届かないだけでなく、取り合いによるトラブルや混雑が発生し、安全確保のために警備員を配置せざるを得ない状況も生まれている。

 本来、これらの広告は「新しい商品との偶発的な出合いを通じて購買につなげる」ことを目的としている。しかし、おさんぽ界隈による過剰なサンプル回収は、この目的を大きく損なう可能性がある。サンプルが“ファン予備軍”ではなく“サンプル収集者”に偏って渡ってしまうことで、ブランド体験の機会が本来届けたい層に届かなくなるからである。

 さらに、おさんぽ界隈の一部の層は入手したサンプルをフリマサイトなどで転売し、無償で得たものから利益を得ているという指摘もある。こうした行動は、サンプル配布施策の本来の意図から大きく逸脱しており、ブランド側にとっては看過できない問題となっている。

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