ファミコンブームの誕生とハドソン成功の理由:高橋名人が語る(6/6 ページ)
任天堂が発売した家庭用ゲーム機「ファミコン」は、80年代を代表する社会的な大ブームを巻き起こしました。どのようにしてそのブームはでき上がっていったのでしょう? その裏側にあったものとは? 立役者の一人である高橋名人が語ります。
ファミコンのゲームソフトの販売数は、年ごとに分類すると以下のようになります(関連リンク)。
1983年 9タイトル
1984年 20タイトル
1985年 69タイトル
1986年 86タイトル
1987年 118タイトル
1988年 141タイトル
1989年 148タイトル
1990年 157タイトル
1991年 151タイトル
1992年 95タイトル
1993年 52タイトル
1994年 7タイトル
ちなみに、94年に発売された、ファミコンで最後のゲームは「高橋名人の冒険島IV」です(笑)。ファミコンのおかげで高橋名人になることができましたが、その最後のゲームに私の名前が付いているというのは、感慨深いものがあります。
失敗は許されない
ハドソンは最初のサードパーティになったから、成功したのだと言えます。85年からの年間販売タイトル数の増加を考えれば、この年に参加したソフトメーカーが、他社に埋もれてしまってもおかしくありません。また、サードパーティだからと言っても、面白くないゲームであったら、そこまで子どもに応援されることもありませんでした。
他社の参入が少ない早期の段階で、そのメインターゲットである子どもたちへインパクトを与えたこと、そして、当時のハドソンの事業規模などを考えると、参加する限り失敗は絶対にできないということで、PCゲームで世界的にブームだった「ロードランナー」を選んだのです。そして、PC用の1画面ステージ構成だった内容を、キャラサイズを大きくして、ファミコン独自のゲームにしたことも成功のポイントになったのだと思います。
次回は、ファミコンブームの盛り上がりとともに、私が「名人になった日」について紹介しましょう。
関連記事
- なぜ「ビックリマン」は年間4億個を売り上げるまでのブームになったのか?
1980年代後半、日本中の子どもたちの間で爆発的なヒット商品となったのが「ビックリマンチョコ」だ。なぜビックリマンは年間4億個も売れるほど大ヒットしたのだろうか……? - 地ビールブームから一転、8年連続赤字で“地獄”を見たヤッホーブルーイング
現在、11年連続で増収増益、直近4年間の売り上げの伸びは前年比30〜40%増と、国内クラフトビール業界でダントツ1位に立つヤッホーブルーイング。しかしここまではいばらの道だった……。井手直行社長が自身の言葉で苦闘の日々を語る。 - 紅白歌合戦で39度の高熱、この失敗が仕事の意識を変えた
20年以上もプロとしてステージに立ち続けてきたMAXのLINAさん。さまざまな仕事の中で経験したこと、学んだことなどをこの新連載でビジネスパーソンに伝えていきます。 - 激戦ラーメン市場、それでも「一風堂」が選ばれ続ける理由
31年前に福岡で創業したラーメンチェーン「一風堂」の成長が止まらない。国内外で出店攻勢をかけているのだ。1年間で約3600ものラーメン屋が閉店に追い込まれる激戦市場において、なぜ一風堂は顧客に選ばれ続けているのだろうか。 - 元千葉ロッテ・里崎さん「僕がビックリマンPR大使になった理由」
ロングセラーのお菓子商品「ビックリマンチョコ」をもっと世の中に広めるため、2年前にビックリマン終身名誉PR大使に就任したのが、プロ野球・千葉ロッテマリーンズで活躍した里崎智也さんだ。里崎さんとビックリマンのかかわりとは? また里崎さんが選ぶビックリマンベストナインとは?
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.