ファミコンブームの誕生とハドソン成功の理由:高橋名人が語る(5/6 ページ)
任天堂が発売した家庭用ゲーム機「ファミコン」は、80年代を代表する社会的な大ブームを巻き起こしました。どのようにしてそのブームはでき上がっていったのでしょう? その裏側にあったものとは? 立役者の一人である高橋名人が語ります。
問屋やおもちゃ屋を回ってお願い
ハドソンがファミコンで成功できたのは、何もないところから初めてのものを作る「ゼロから1へ」という理念のおかげだと思います。
それまで任天堂というファーストパーティからしか出ていなかったファミコン製品の世界に、異色のゲームを投入することで大きな差別化が生まれました。
また、早期からサードパーティとして存在していたことで、子どもたちからの支持も得られ、その後、85年に参入してきた、ほかのソフトハウスの中に埋もれることもありませんでした。これらの要因が、ハドソンの成功につながったのだと思われます。
しかし、他社に先駆けて参加するというのは、それなりの苦労もあります。
当時の任天堂には、「初心会」という問屋さんのグループがありました。ファミコンのゲームカセットを販売するには、この初心会に納品するしかないのです。任天堂から初心会を紹介されたのち、営業の責任者であった所長(当時のハドソン東京の所長)と私の二人で、全国の初心会に出向き、デモンストレーションをしながらソフトを売り込むのですが、どこの問屋さんに行っても、最初に言われるのは、「ファミコンは任天堂さんのものでしょう。おたくが勝手に出していいの?」という言葉でした。
当時はサードパーティという言葉すら確立されていなかったので、当然の結果です。そこで、所長から、
- 任天堂の許諾を得ていること
- 初心会も任天堂から紹介を受けたこと
- ゲームカセットは任天堂の工場で製造していること
を説明して、サードパーティという存在に納得してもらってから、毎回ゲームの説明を行ったのです。
また、東京都内のホテルで、地方のおもちゃ屋さんの会合があると聞けば、ファミコンとTVを持ち込んで、「説明させてください」とお願いしに行ったこともありました。
とにかく、初めてづくしですし、ファミコンのカセットを30万本も製造するという資金繰りを考えると、絶対に成功させなければなりませんでしたので、現在のアンテナショップ以上に、アンテナを広げ……いや、ソナーを打ち込んでいったのです。
また、先ほど書いたように、NUTS & MILKとロードランナーの2タイトルを販売したのですが、宣伝費用も少ないことから、どちらかに比重をかけた方がいいだろうとの判断で、TVCMを始めとした宣伝は、ロードランナーを8割弱という比率で集中させました。
これが功を奏して、ロードランナーは大成功。発売日の数日後には、会社の電話対応のほとんどが「ロードランナーはないのか?」という問い合わせになりました。ファミコンのゲームカセットの製造には3カ月かかりましたので、再出荷の日まで、殺到する電話が延々と続いていきました。
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